集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

人生の意味について

苦しみや苦悩が尽きず屈辱的な人生を歩まざるを得ない集団ストーカー被害者。我々被害者は普通の人達以上に人生の意味や価値について考えるはずである。

なにせ、嫌がらせは気味が悪く心理学に精通した者が産み出した犯罪であり、加害者側はどういう嫌がらせをすれば、被害者を落ち込ませ悲しませることが出来るか完璧に熟知しており、従ってストレスも溜まるししたいことも嫌がらせに邪魔され許されず出来ることも制限され、屈辱にも耐えなければならず、それに加え人生の貴重な時間までも奪われるのだから全くもって最悪である。

我々被害者は一寸先は闇、この先はどうなるかわからない一触即発、ギリギリの極限状況まで追い詰められている。
突然、いつ終るかわからない卑怯卑劣な戦いを強いられるジャングルの中に放り込まれてしまったのであり、こっちの戦況は圧倒的に不利である。

このような状況下に置かれたら誰だって人生の意味について真剣に考えるはずである。
苦しみだけの人生に意味がなかったらなんの為の人生かわからず、そんな虚無状態には耐える者はいないからである。

人生の意味について深く熟考した著名人と言えばヴィクトール・フランクルがいる。知っている人も多いと思うが例の悪しきナチスドイツが用意したユダヤ人虐殺収容所アウシュビッツに収容され、そこから奇跡的に生還した精神科医である。

アウシュビッツに収容されたヴィクトール・フランクル含むユダヤ人もまた、我々と同様に極限状態まで追い詰められていた。
過重労働、食事と睡眠の慢性的な不足、そしてあまりに理不尽で無意味なままに振るわれる暴力。
ほんの数ヶ月の労働で体力も限界に達し階段の上り降りも出来なくなる有り様であった。

例の毒ガス室はもはや生に対して無気力になってしまったユダヤ人達の自殺の手間をはぶいてくれる安価な自殺装置でしかなく、恐るべきものではなかった。この地獄から解放されるなら死を含め何でもよかった。

そんな無気力状態が蔓延する収容所でフランクルは、人生の意味について考える。

「苦渋に満ちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして苦悩に値したか、しなかったか」と、苦しみだけの人生に意味がないのであれば、全てが無価値となり、苦悩の存在意義も失われてしまう。
人生の苦悩もそこに意味を見出だし、何かに生かしてこその苦悩であると。

「しかし未来を、自分の未来を信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的な拠り所を失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。」
圧倒的な虚無感と自分が自分であるという感覚が損失してしまう無力感と無価値感、「自分の屍のあとから歩いているような気がした」と語るユダヤ人、そこでは日々刻々と突き付けられる死の恐怖も損失し、全てが無価値であり、無意味に思える異様な状況であった。

「生きる目的を見出だせず、生きる内実を失い生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味を見失った人は痛ましい限りだった。そのような人々は拠り所を一切失ってあっという間に崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼等が口にするのは決まってこんな言葉だ。『生きていることにもう何にも期待がもてない』こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。」

このような極限状況の中でもフランクルはただ一人諦めない、考えることをやめない。彼なりに徹底的に考えに考え抜きある結論に到達する。

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換するこだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。中略、生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。中略、具体的な運命が人間を苦しめるなら、責務とし、たった1度だけ課せられる責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった1度、そして二つとないあり方で存在しているのだという意識に到達しなければならない。誰もその人から苦しみを取り除くことはできないし、誰もその人の身代わりとなって苦しみをとことん苦しむことは出来ない。この苦しみを引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かを成し遂げるたった1度の可能性はあるのだ」

どんな辛く苦しい人生にも意味があり、苦しみを苦しみのまま放置し、全てを諦めるべきではない。
自ら積極的に苦しみに向き合い、人生の意味について熟考する。
いうならば受け身の姿勢ではなく苦しみの中にあって、苦しみそのものに意味を与える。その姿勢こそが重要であり、大切なのだと。

我々被害者も人生の意味について考えてみては如何であろうか。毎日が辛く苦しみに満ち溢れた人生でそこに何の意味もなかったら何故産まれてきたのか全くわからない。

どんな苦しみにも意味がある。意味のない人生何ぞ存在しない。もし、仮に全てが無意味だという結論を出したならばそれ自体が1つの解答であり、それ自体が1つの意味であり、自分自身の人生に全ては無意味だという意味を与えてしまっている。言うなれば無意味の意味である。
従ってどのうような人生を生きるにせよ、必ず人生には意味が発生してしまう。意味のない人生は存在しない。
それならば人生の意味について真剣に考え、人生からの問いに答えなければならない。

人生の意味。

それは時として残酷な問いでもあろう。他者があり、他者の了解あってこその意味だからである。他者の存在しない世界で自分の人生の意味について考えてもそれこそ無意味であり、無価値である。そして自分の人生の意味を誰も理解してくれない可能性があるからである。
それでも、やはり人生の意味について各人それぞれがしっかりと考え、答えをだすべきであろう。

我々被害者は非常に辛い状況におかれ毎日苦しんでいる。こちらの同意なしに勝手に相当理不尽な仕方で戦場に放り込まれてしまった。

いつ終るかわからない戦いの中で時には無気力になり、時には怒り狂い、時には涙を流し、時には全てに対して諦めの境地になることもある。辛いなかで人生の意味について考えるのは大変なものである。それでもちゃんと自分なりに人生の意味について考え人生の側が自分に何を求めてるのかを考える。

逃げ出したくなることもあるし、絶望感にうちひしがれ全てを投げ出し泣きたくなることもあるけど、辛いのはみんな一緒。
人生の意味についてしっかりと考え、共に頑張って生きていきましょう。

どんなキチガイ染みた病にも社会性がある

以前、私は大きな問題を抱えてると書いたが、もう1度簡単にその問題を繰り返すと、友人に心の中にありとあらゆる観念群を植え付けられその観念が視点へと変質し、常に内面を除かれ内側から支配さる状態になったことがあるーーいわゆる視点死刑であるがーーと書いたが、このような気味の悪い病にも社会性があると思われる。

例えば松本人志の「遺書」がそうである。この松本人志の「遺書」が日本のお笑い会に多大な影響を与えたことに異論はないだろう。お笑い会のみならず一般社会にも多大な影響力をもったのもまた事実である。

一般人が「俺はどちらかと言うと突っ込みタイプ」とか「俺はどちらかと言えばボケ」だなとか言い出したのは「遺書」以降であるし、当時はみんな松本人志の真似をしていた。

「遺書」の中にちりばめられたさまざまな言葉、哲学、思想がテレビ会を良くも悪くも「汚染」したのも事実であろう。

「遺書」以降日本のテレビ番組がつまらなくなってしまったのは疑いの余地の無いところである。

その理由として松本人志の言葉が観念化し、テレビ会を凝視する視点へと変質してしまったと考えることは出来ないだろうか。

このボケや突っ込みをしたら松本人志につまらないと思われるの恐ろしく、笑いの質を変えざるを得なくなってしまった可能性はないだろうか?

松本人志的なあるいはダウンタウン的な笑いが日本中を席巻し芸人も一般人もパクってたし、はっきし言ってそれはつまらぬものでしかなかった。

日本のテレビ番組は「遺書」以降どんどんつまらなくなっていった。たとえばビートたけしが昔に比べてつまらなくなったのも、素直に笑いたいけど笑えなくあのビートたけし特有の「ニヤリ」とした笑いかたも「遺書」以降によく見られる現象である。私はビートたけしのバイク事故も「遺書」に敗北感を感じたビートたけしの自殺だったという説を持っているがどうであろうか?

最近のお笑い芸人は何でもかんでも突っ込むしまたその突っ込みがしつこいし、これは浜田雅功ダウンタウンファミリーとも言われた今田、東野のパクりとしか思えないし、ワイプに映るタレントの笑い顔も「笑わなきゃならず笑ってる」という感じで素直な笑いではない。
最近の笑いはボケから突っ込みまで全てが予定調和でつまらないし、そこにはやはり松本人志の「ダウンタウン的なもの以外はつまらない」という視点があり「つまらない」と思われるのが怖いからではなかろうか。

どう考えても松本人志の「遺書」以降日本のテレビ番組は変質してしまった。(そんななかお笑いの質が遺書以降も全くぶれなかった島田紳助は流石と言わざるを得ず引退が非常に惜しまれる)

笑いコンビは別にどちらがボケでどちらが突っ込みという決まり事なんかないのはたとえば、とんねるずウッチャンナンチャンを見ればあきらかで、その時々の状況に応じてどちらが突っ込んだりボケたりすれば言い訳で別にお笑い形態としては、必ずしもどちらがボケでどちらが突っ込みといった役割分担が必須というわけではない。
ウッチャンナンチャン的、とんねるず的なお笑いコンビがもっといてもいいわけである。そんなお笑いコンビが中々出てこないのも、非ダウンタウン的なお笑いを出来ない恐れがあるからであろう。

ダウンタウン以降、ほとんど全ての笑いコンビがボケと突っ込みの役割分担がはっきりしており、今は昔ほど酷くないが少しでもダウンタウン的な要素があるとただの物真似に過ぎないからつまらなく感じるのであった。
一時シュールな笑いが注目され、シュール系芸人が持て囃された時期があったが、このシュール芸も松本人志のパクりでしかなかった。

兎に角松本人志の視点がテレビ会に内在化されてしまったことは疑いようのない事実である。

明石家さんまですら、松本人志の視点を感じながら番組に挑んでるのでなかろうか。
ボケと突っ込みがしつこく見てて楽しいとは思うが正直疲れる。

ダウンタウンも歳をとり今年で55歳である。流石に昔程の輝きはないが、ダウンタウンがどんどんつまらなくなっていくのと日本のテレビ番組がつまらなくなっていくのは比例関係にあって軸を一にしており、繋がっているとは言えまいか。

番組制作スタッフも本音を言えば正直松本人志の視点が邪魔で重苦しく感じているのではなかろうか?

私に視点死刑の刑が執行されたのも、「遺書」の発売年とほぼ被るし、私を自分の支配下に置こうとした彼は松本人志の芸風をよくパクっていた。

気味が悪く絶対に誰も同じ目にあいたくない視点死刑という刑罰も実は彼のオリジナルではなく社会性があったのであり、私を支配下に置こうとした彼も時代の手のひらの上で踊らされてたのである。

我々集団ストーカー被害者は24時間監視され思考盗聴器の存在を疑わざるを得ないし、(誰にも打ち明けたことのない心の中のプライバシーを仄めかされたことのある被害者は結構多いのかもしれない)我々は常に何者かの視点を感じさせるのがメインの犯罪、集団ストーカーの嫌がらせに耐えながら生きているわけであり、集団ストーカーも所詮は社会が産み落とした(集団ストーカー発明者のオリジナルではなく)社会性の産物かもしれないのである。

許されざる者

電磁波兵器で脳を破壊された。

日常生活に支障をきたすレベルまで脳の機能が衰えてしまった。スマホの書き込みや食器の洗い物など器用に出来なくなってしまった。その他、日常の中の小さな動作、色々とあるが、例えば靴ヒモを結ぶなども昔みたいに器用に出来ない。

常に頭はぼーとし、自分が自分であるという感覚はなく、分裂病患者みたいになる。一体どれ程の罪を犯したらここまで酷い目に遭わなきゃならないのか。

電磁波兵器で人間をどのレベルまで破壊出来るのかは知らないが、多分殺すことも簡単に出来るのだろう。直ぐには殺さずじわじわと茹で蛙のようになぶり殺す。

脳機能が回復不可能だとしたらどうだろう。なぜ、ここまで悲惨な目に遭わなきゃならないのか、全く理解不能である。

実際に罪を犯し刑務所にぶち込まれた犯罪者を我々と全く同じ目に遇わすのもおぞましい。
ヒトラーに全く同じことをしてもヒトラーに対し同情心が湧いてくるくらいおぞましいクソみたいな犯罪集団ストーカー。
これはただの虐待ではないか。

物忘れも激しいし、文章を読んでも頭の中に入ってこない。記憶することも出来なくなり頭に残らない。

耳鳴りも頭の重さも常時だし、人海戦術を駆使した集団ストーカーも相変わらず。

何度も引っ越しを繰り返すのも最悪である。

一時期外に外出出来なくされたと書いたが、そのお陰で免許の更新にも行けず、免許証は失効してしまった。全くろくでもないことばかりである。また1から免許証を取得しなければならず、面倒くさいし、金もかかる。やれやれである。

絶対に許せない。何故ここまでひどい目に遭わなきゃならないのか。今更謝罪されても許すつもりはさらさらないしどうしても許せない。こいつらを裁きたい。

裁くことは出来ないのか。何故こんなおぞましい犯罪が世の中にまかり通るのか理解できない。

我慢も限度を超えて部屋の中で絶叫することある。近隣住民に迷惑をかけてるかもしれない。しかしここまでひどい目にあうと回りにかける迷惑なんかしったこっちゃない。

集団ストーカーは人間にして許される限度を遥かに超えていると思う。

早く死なねえかなこいつら全員wとよく思う

何れにせよ終わって最悪、終わらなくて最悪の犯罪集団ストーカー、1日でも早い終りを願うしかない。

どうやっても終わらない。 集団ストーカーはもううんざり。

うざい、しつこい、気味が悪い、気持ち悪い。
もう二度とこんな奴等とは関わりたくない。

そりゃ当然。犯罪の内容は気味の悪いものばかりだし、人生をこいつらの都合のいいように操られ、利用され、破壊される。ここまでされたら誰だって性格が歪むだろう。歪まないにしても自分の中の何かが変質するであろう。

なぜ、我々被害者だけここまで人生を奪われ破壊されなきゃならんのだ?自由は奪われ、嫌なことを強制され人生の貴重な時間をしたくもないことに費やさなきゃならない。

駄々広いこの大宇宙の中のちっぽけ惑星のちっぽけな国で生きるたった1度きりのかけがえのない人生。人生の価値はかけがえのなさの中にこそある。この瞬間瞬間が取り返しのつかない、貴重な時間である。今を懸命に生きろとよく言われるが、それはまさにその通りで自分と同じ命も人生もなく、この先産まれることもない。まさに、人の命とは、人生とはかけがえのない瞬間瞬間の連続である。1分1秒も無駄に出来ない。今を懸命に生きる他にない。それなのに何故集団ストーカーのアホ共に貴重な人生の時間を売りとばさなきゃならんのだ?こいつら集団ストーカーだって、人生の価値ぐらいはよっぽどの馬鹿じゃない限りわかるだろう。

いじめはまだいい、人生の辛い記憶、悲しみもよっぽどトラウマティックなものでない限り時とともに流れ去っていくだろう。

だがしかし時間だけはどうにもならない。失った時間はだけはどうやっても取り戻すことが出来ない。トラウマよりも厄介な問題で、仮に全てが終わったとしても過去を振り返る度に自殺ものの虚無感に襲われるだろう。

こいつらだってそれぐらいはわかってんだろうが!
1番の罪は人の命を奪うことである。2番目の罪は時間を奪うことである。命と同様時間も1度失ったら2度と取り戻せないからである。本当に罪深い犯罪であると思う。

終わらないことの理由の1つに私の口の悪さがあげられるが、悪口を言うのと時間を奪うのとではどちらが罪が重いのか。当然時間を奪う方が罪は重いが、まさか、私の悪口で自殺を考えるくらいのショックを受けた人間がいたのであろうか。或いは、罪を感じて実際に自殺をした人間がいたのであろうか。

随分前の記事に甲本ヒロトからの仄めかしに「僕は口の悪い人は助けないよ」というものがあったと書いたが、此方は被害歴25年である。この25年の間にあらゆる苦しみを味わってきたし、この25年の間に出来たことも沢山あったであろう。

私の悪口が罪で終わらないことの理由の1つならば、私は懲役25年集団ストーカーの刑の受刑者である。罪はもう充分過ぎるほど償った。こいつらにとってみたら、私の悪口なんぞ痛くも痒くもない蚊に刺された程度のものであろう。


私の人生は奪われたまま未だに返ってこない。

ひょっとしてこいつらの目的は私に絶望を与えることかもしれない。晴れて集団ストーカーとお別れというわけにはいかず、人生の貴重な時間を奪い絶望感を与えたまま集団ストーカーのない世界にほっぽり出されるのだろうか。集団ストーカーが終わった代わりに今度は時間を奪われた後悔と悔恨の地獄の中で生きることになるのである。

とにかく、終わって絶望、終わらなくて絶望の私の人生。

こいつらだけはどうしても許し難い。

集団ストーカーは罪

他の被害者がどの程度の被害にあっているのか知らないが、私の場合はかなりひどい状況である。ひょっとすると、被害者によって嫌がらせのレベルに違いがあるのかも知れない。

比較的楽なレベルの嫌がらせで済んでいる被害者もおり結構気軽に外に出掛けたり、友人と遊んだり家族サービスをしている被害者もいるのかも知れない。

私の場合、この集団ストーカーの被害にあってから家族も失い、友達とも疎遠になり絶対的な孤立状態へと追い詰められてしまった。

どこにいても何をしても楽しくない、深い溜め息きが漏れる毎日で、ただひたすらこの犯罪が終わる日を待っているだけである。自殺が頭を過ったのは1度や2度ではない。

一体私が何をしたというのだろう。なぜ、ここまで卑劣なことをされ嫌がらせに耐えなきゃならないのか全く理解出来ない。この犯罪に耐えた暁には何か嬉しいご褒美でもあるのであろうか。そんなものは有りはしないと思うが、被害期間も長いし嫌でも今までの苦労を帳消しにできるだけのご褒美を期待していまう。

前にこの犯罪は実は全ての人間が知っている犯罪だと説明したが、そのことに気付かされてからもう、6年も経とうとしている。気付かされる前はまだいくばくかの余裕があり気軽に外出し買い物等も楽しめたが、気付かされてからはもう駄目である。ろくに外出出来なくされてしまった。しかも、この期間に全ての人間に思考盗聴されていると思い込まされた。それはそれは地獄の日々であった。日中部屋にいても、全く気を落ち着かせることが出来ない。
考えたいことも自由に考えることも出来ない。分の悪い事を考えるとそれを必死に押さえにかかる地獄のような日々であった。(本当に思考盗聴器があって思考盗聴されてるのかどうかはしらないが、誰に打ち上げたこともない心の秘密を何度も仄めかされた事があるから、やはり思考盗聴器の存在は疑わざるを得ない)

この6年間の内5年間は外出は殆ど夜、買い物は24時間営業のスーパーと通販を利用し、後は一日中部屋に籠ってると体に悪いので真夜中に散歩を2時間ほどしていた。ストレスと鬱で顔も老け込み身体も重たくなってきた。

最近は昼間に外出出来るようになったが、それでも人の顔色を伺うのは今はまだ怖い。笑われてるんじゃないかと勘ぐってしまう。

私は少なくとも6年間は確実に潰されたわけで、この6年間にされたことは完全に犯罪であり罪深い行為と言ってもよいのではなかろうか。したいことも出来ないくらいほぼ完全に行動を制限され時間を潰されたのだからただの犯罪行為、罪深い行いである。こいつらのことを罰することは出来ないのか。
何故こんな犯罪行為が許されるのか全くわくらない。わざわざ罪を犯してまでやる価値があるというのかw
その価値とは何なのか。全くわくらない。なんでこいつらは、こんなに執拗で執念深いのか。気持ちが悪いレベルであるw馬鹿じゃあるまいしわざわざこんな気色の悪いことを喜々としてやる馬鹿がいるとは思えないし、仮に馬鹿な犯罪行為でなく何か意味のある行為だとしても、その意味と気色の悪い犯罪行為を繋げるものを見付けることができない。

一般人だけではなく、多数の有名人や政治家、宗教家、権威の象徴などが仄めかしに参加(笑)してくるから、やはり何かとんでもない深い意味があるのかも知れない。

しかし、私のことに関して、私に行われたことは確実に犯罪行為と断言してもいいと思う。2度と取り戻すことの出来ない時間を奪われたのだからこれは罰するべき犯罪である。だいたいプライベートを監視しているのも罪深いし、不法侵入もされてるのも確実だから、集団ストーカーはどう考えてもただの罪深い犯罪行為なのである。

そうであるのにも関わらず笑い者にされたり小馬鹿にした態度を取られるのは気分の悪いものである。
心ない普通の人たちには心底うんざりし、失望してしまう。私の人生はもうほとんど終わってしまっているからどうでも良くなってきたが他の被害者のことが非常に気掛かりである。

まあ、これからも嫌なことは一杯あるかとおもわれるがなるだけ冷静さを失わずお互い毅然とした態度で集団ストーカーに対応し、負けないように頑張っていきましょう。(^-^)/

本当にしょうもないことにまきこまれたなw

しょうもねーなあ、ったくよ、やってらんねえよw
いつまでこんなしょうもないことに耐え続けなきゃなんねえだよw
いくらなんでもながすぎだろw
25年とか頭おかしすぎるわw

どうやったら終わるんだよw
終わる条件はなんなんだよw

俺は充分過ぎるほど苦しみは味わっただろw
いつまで苦しまなきゃならねーんだよ

もうこっちは限界なんだよw
いい加減に終われや集団ストーカーよおーw

何で終わんねえんだよ、もう終わってもいいだろうw
なげーんだよ、どんだけ人生犠牲にしなきゃならねえんだよw

俺のこと恨んでるのかよw
もしくは面白くてからかってるのかよw

どっちなんだよ、おしえてくれよ
もう嫌なんだよw集団ストーカーはw
うんざりなんだよ、いい加減にしてくれよw

終われよw頼むからもう終わってくれよw時間がもうねえんだよw

人の人生勝手に奪ってどういう気なんだよw
なんとも思わねえのかよw

どういう神経してんだよお前w本当に人間か?w
理解できねえよ、なんでここまで卑劣なことを平然と出来るんだよw
見た目は人間w中身は化け物かよw

どうなってんだよw俺の事に関してどういう話し合いが行われているんだよw
終わらす気はあるのかよw
終われよいい加減
頼むからもう終わってくれよwなあ頼むよw
もういいでしょw

もういいよね俺は充分過ぎるほど苦しみは味わったw

頼むからもう終わってくれよwwwwwwwwwwww
いいじゃんもう、何が駄目なの
終わらすことの出来ない理由なんなのさ
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

答えろよ、終わらすことの出来ない理由をさw

はははははははははははははははははははははははwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww頭がおかしくなってきたぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

それが目的か、俺を発狂させるのが目的なのかw
それならもう、目的は達成されたぞwww
ガチで狂ってきたわww

なんなのさw真の目的はw

いい加減に教えてくれよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww(泣)

リアル自殺強要ストーキングなわけなんだがw

集団ストーカーの被害にあって自殺を考えたことのない人間は圧倒的に少数派でしょう。理由は人によって様々でしょうが私も自殺を考えたことがある人間の1人である。

生きてても楽しいことなんか何もないし辛いことばかりだから当然自殺を考える。いつ終わるか分からない拷問に耐えながら今日こそは終わるだろうと期待し、家を出るがその希望は毎度のことながら繰り返される様々な嫌がらせによって、潰されてしまう。

若い頃に1度首吊りを試したが失敗におわった。

若い頃と歳を取った今では自殺願望の理由が変わってくる。若い頃はただ単純に嫌がらせが辛いのと、人生がつまらなさ過ぎるので自殺をしょっちゅう考えていた。歳を取った今は嫌がらせの頻度は減ってそれはいいのだが、その代わり歳を取りすぎ、出来ることがかなり限られてしまったことが自殺願望の理由にあげられる。

若い頃は孤立された状態に追い詰められ、したいことが出来ず、今は孤立された状態はかわらずで歳のせいでしたいことが出来なくされてしまった。
もちろん嫌がらせそれ自体が障壁となってしたいことが出来ないということもあるが、やはり人間歳には勝てず、何も出来ずに過ぎ去った日々がげんなりと甦ってくる。

したいことがかなり限定されている中でもうちょっと積極的に行動に移してれば多少は違ったかもしれない。多少は人生を楽しめ後悔は今よりも少なかったかもしれない。

他の被害者の人達が日々何を思い、どうやって集団ストーカーに対処しているのかは知らないが、どこに行っても誰といても嫌がらせに会うのだから出不精になっているのかもしれない。

実際本物の被害者と思われる方のブログで外に出るのが億劫になると書いてある記事を読んだことがある。私の場合は逆で多少の嫌がらせはあっても太陽の光を浴びたくてどちらかというと積極的に外に出てくのだが、他の被害者の方はどうであろうか。
日の光を浴びなかったり身体を動かさないと気分が悪くなる。


集団ストーカーはただの犯罪行為にすぎずそれ以上でもそれ以下でもない。決して許されない犯罪である。それは当然、被害者の脳裏に自殺が過るだけでもアウトだろう。しかし、何故か許されてしまう糞みたいな犯罪集団ストーカー。何故許されてしまうのか知らないが、罪は罪である。集団ストーカーを裁きたい。

もし、仮に私が自殺をしたら、集団ストーカーはどうなるのであろうか。その罪を問うことは出来ないのであろうか。罪に問うことが出来ないとすると、他の被害者の人達は相変わらず嫌がらせに耐えるだけの毎日であろうか。

今は毎朝目が覚めるとどうしょもない絶望感に襲われ深い溜め息が漏れる。時は一時も止まらずに過ぎていく。歳もどんどん取っていく。出来ることも限られていく。何で終わってあげないんだ。四半世紀も集団ストーカーと共に過ごして来たのだからもう終わってもいいだろう。

仄めかしかどうかは知らないが松本人志からもやもやすると言う言葉があった。これが、仮に嫌がらせの終わらない原因の1つで、仄めかしであり、すっきりさせた状態で集団ストーカーを終わらせたいのだとしたらどうであろうか。

そんなこと知ったこっちゃない。向こうの理由なんかどうでもいい。被害者の人生を尊重すべきだし、すべきである。とっとと終わってもらいたい。もう苦しみはたくさんである。磔は充分過ぎるほど味わってきた。仮に犯罪が終わっても日々の日常の中で自殺が頭を過ることもあるだろう。それは当然で失った過去は返ってこないし、未来の人生はもう短い。人生を楽しむには歳を取りすぎた。何か楽しいことや嬉しいことがあっても過去の後悔が頭をもたげるだろう。この先私が人生を楽しめることはなく、人生を謳歌することもないであろう。