集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

人生の意味について

苦しみや苦悩が尽きず屈辱的な人生を歩まざるを得ない集団ストーカー被害者。我々被害者は普通の人達以上に人生の意味や価値について考えるはずである。

なにせ、嫌がらせは気味が悪く心理学に精通した者が産み出した犯罪であり、加害者側はどういう嫌がらせをすれば、被害者を落ち込ませ悲しませることが出来るか完璧に熟知しており、従ってストレスも溜まるししたいことも嫌がらせに邪魔され許されず出来ることも制限され、屈辱にも耐えなければならず、それに加え人生の貴重な時間までも奪われるのだから全くもって最悪である。

我々被害者は一寸先は闇、この先はどうなるかわからない一触即発、ギリギリの極限状況まで追い詰められている。
突然、いつ終るかわからない卑怯卑劣な戦いを強いられるジャングルの中に放り込まれてしまったのであり、こっちの戦況は圧倒的に不利である。

このような状況下に置かれたら誰だって人生の意味について真剣に考えるはずである。
苦しみだけの人生に意味がなかったらなんの為の人生かわからず、そんな虚無状態には耐える者はいないからである。

人生の意味について深く熟考した著名人と言えばヴィクトール・フランクルがいる。知っている人も多いと思うが例の悪しきナチスドイツが用意したユダヤ人虐殺収容所アウシュビッツに収容され、そこから奇跡的に生還した精神科医である。

アウシュビッツに収容されたヴィクトール・フランクル含むユダヤ人もまた、我々と同様に極限状態まで追い詰められていた。
過重労働、食事と睡眠の慢性的な不足、そしてあまりに理不尽で無意味なままに振るわれる暴力。
ほんの数ヶ月の労働で体力も限界に達し階段の上り降りも出来なくなる有り様であった。

例の毒ガス室はもはや生に対して無気力になってしまったユダヤ人達の自殺の手間をはぶいてくれる安価な自殺装置でしかなく、恐るべきものではなかった。この地獄から解放されるなら死を含め何でもよかった。

そんな無気力状態が蔓延する収容所でフランクルは、人生の意味について考える。

「苦渋に満ちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして苦悩に値したか、しなかったか」と、苦しみだけの人生に意味がないのであれば、全てが無価値となり、苦悩の存在意義も失われてしまう。
人生の苦悩もそこに意味を見出だし、何かに生かしてこその苦悩であると。

「しかし未来を、自分の未来を信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的な拠り所を失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。」
圧倒的な虚無感と自分が自分であるという感覚が損失してしまう無力感と無価値感、「自分の屍のあとから歩いているような気がした」と語るユダヤ人、そこでは日々刻々と突き付けられる死の恐怖も損失し、全てが無価値であり、無意味に思える異様な状況であった。

「生きる目的を見出だせず、生きる内実を失い生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味を見失った人は痛ましい限りだった。そのような人々は拠り所を一切失ってあっという間に崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼等が口にするのは決まってこんな言葉だ。『生きていることにもう何にも期待がもてない』こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。」

このような極限状況の中でもフランクルはただ一人諦めない、考えることをやめない。彼なりに徹底的に考えに考え抜きある結論に到達する。

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換するこだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。中略、生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。中略、具体的な運命が人間を苦しめるなら、責務とし、たった1度だけ課せられる責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった1度、そして二つとないあり方で存在しているのだという意識に到達しなければならない。誰もその人から苦しみを取り除くことはできないし、誰もその人の身代わりとなって苦しみをとことん苦しむことは出来ない。この苦しみを引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かを成し遂げるたった1度の可能性はあるのだ」

どんな辛く苦しい人生にも意味があり、苦しみを苦しみのまま放置し、全てを諦めるべきではない。
自ら積極的に苦しみに向き合い、人生の意味について熟考する。
いうならば受け身の姿勢ではなく苦しみの中にあって、苦しみそのものに意味を与える。その姿勢こそが重要であり、大切なのだと。

我々被害者も人生の意味について考えてみては如何であろうか。毎日が辛く苦しみに満ち溢れた人生でそこに何の意味もなかったら何故産まれてきたのか全くわからない。

どんな苦しみにも意味がある。意味のない人生何ぞ存在しない。もし、仮に全てが無意味だという結論を出したならばそれ自体が1つの解答であり、それ自体が1つの意味であり、自分自身の人生に全ては無意味だという意味を与えてしまっている。言うなれば無意味の意味である。
従ってどのうような人生を生きるにせよ、必ず人生には意味が発生してしまう。意味のない人生は存在しない。
それならば人生の意味について真剣に考え、人生からの問いに答えなければならない。

人生の意味。

それは時として残酷な問いでもあろう。他者があり、他者の了解あってこその意味だからである。他者の存在しない世界で自分の人生の意味について考えてもそれこそ無意味であり、無価値である。そして自分の人生の意味を誰も理解してくれない可能性があるからである。
それでも、やはり人生の意味について各人それぞれがしっかりと考え、答えをだすべきであろう。

我々被害者は非常に辛い状況におかれ毎日苦しんでいる。こちらの同意なしに勝手に相当理不尽な仕方で戦場に放り込まれてしまった。

いつ終るかわからない戦いの中で時には無気力になり、時には怒り狂い、時には涙を流し、時には全てに対して諦めの境地になることもある。辛いなかで人生の意味について考えるのは大変なものである。それでもちゃんと自分なりに人生の意味について考え人生の側が自分に何を求めてるのかを考える。

逃げ出したくなることもあるし、絶望感にうちひしがれ全てを投げ出し泣きたくなることもあるけど、辛いのはみんな一緒。
人生の意味についてしっかりと考え、共に頑張って生きていきましょう。