集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

続人生の意味について

幾つか前の記事でヴィクトール・フランクルの文章を交えながら自分なりに考えた人生の意味について記事を書きましたが、今回も人生の意味について考えていきたいとおもいます。

まず、第一に人生の意味は他の者との関係性の中から生まれるということです。他者性あってこその人生の意味です。誰もいない孤島で人生の意味について考えても意味がない。人生の意味は関係性の中にこそあります。

第2に人生の意味は受動的に発生するものではありません。自ら積極的に関係性の中に身をおいてその関係性の中から自ら積極的に人生の意味について熟考します。積極性なくして人生の意味は発生しません。関係性の中に自らを放り投げてその関係性の中から見えてくる自分の中にこそ人生の意味が初めて発生する余地があります。

そして第3に生きることから何かを期待しても人生の意味は発生しないということです。生きることから何かを期待するのではなく、寧ろ人生の側が自分に何を期待しているのか考えるということです。辛く苦しい状況下にあってその苦しみにどんな意味があり、そこから人生の側が自分に何を期待しているのか考える。言うなれば人生の側が非常に辛い中にあって、そこからどんな意味を自分が見出だすのか、期待しているのか考える。つまり、人生の側が自分に人生の意味を問い掛けてくるわけです。我々はそれに応える義務があると考えます。

我々集団ストーカー被害者の人生は辛く苦しいものです。時に怒り、時に泣き、そして、時には無気力になります。こんな悲惨な生活を送っているが上に全てがアホらしく感じることもあるかとおもいます。

全ては無価値で無意味だと考えることもあるかと思います。しかし、これはよくない。何故ならばこれ事態が1つの解答であり、その者にとっての人生の意味に他ならいわけであります。なんともお粗末な解答と言わざるを得ません。非常に辛い中にあってこそ燦然と輝いて見えてくるものがあります。関係性の中から発生する人生の意味です。辛い辛い人生に意味を与えなければなりません。非常に辛い中にあって人生からの問いに応える作業は時には辛く厳しいものになりかねません。しかし、我々集団ストーカー被害者に残された道は人生からの問いに応える他にないのではないかと思います。時には全てに対して投げやりになることもあります。私だってそうです。しかし、集団ストーカー被害者に選定されて非常に辛い人生を生きる中で全ては無意味だとニヒリズムだかシニシニズムだか知らないが、逃げることは簡単なことだと思うのです。寧ろ嫌がらせの中から生まれる苦しみと苦悩をきっかけっとして、人生の意味をそこから汲み取り人生の側からの問いに積極的に応え続ける姿勢が必要なんだと思います。

何処にいても、誰といても、部屋の中にいても必ずなにがしかの嫌がらせにあう、全てが制限され極限的な状況下にあって残された唯一の道は人生の意味について考えることだと思うのです。皆さんギリギリの非常に切迫つまった状況にあるとおもいます。それでも積極的に考えましょう!人生の意味について。それこそが我々被害者に残されたただ1つ唯一の可能性だと思うのです。ギリギリの限界状況にあってこそ見えてくるものがあると思うのです。

ヴィクトール・フランクルの言うとおり意味のない人生なんぞありはしません。どんな人生にも意味はあるのです。

皆さん非常に辛い人生を送っておられるかと思いますが人生の意味について考え、そして集団ストーカーの終焉を信じてこれからも共に頑張っていきましょう!