集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

セルフイメージ逆比例の法則─集団ストーカーはなぜ終わらないのか

岸田秀の説によるとセルフイメージは他人からはそのセルフイメージの反対が他人からは自分のイメージとして見えてるらしい。例えば自分は心優しい人間だと思っている人間は他人からは冷たい人間と思われてるらしいのである。自分が生きるのが下手くそでいつも損ばかりしていると思っている人間は謙虚で欲のない人間ではなく誰よりも傲慢で欲深い人間であると言うのだ。これはどういうことかと言うと、例えば他人に施してやっているのに期待しているほどの見返りがなく、いつも損ばかりしていると思っている人間は他人から受ける損失が大きいから損をしてると思うのだが、そうではなく、自分は他人に施してやったのに期待してるほどの見返りがないと感じるのは、普通の人よりも対価を求める基準値が高い為にその落差が大きい為、自分は損をしてると思うと言うのである。従って自分は生きるのが下手くそでいつも損ばかりしていると思っている人間は謙虚で欲望が少ない人間ではなく傲慢で欲望の強い人間と言うのだ。

私は自分が謙虚で心優しくかつ何か才能があると思っているが他人からは、傲慢でかつ冷酷で無能な人間と思われている可能性がある。私は何か才能があると思っているがその自己評価の基準値が普通の人よりも高く、そして、実際のところは無能である為に他人に腐れるとその基準値の高さの落差から私は自分が酷く侮辱されたと思い、怒りの感情を抱くと思われるのだ。その他に私は自分は謙虚で心優しい人間であるというセルフイメージを持っているが岸田秀の理論に従うと私は傲慢でわがままで冷酷な人間と言うことになる。これは当てはまっているのかも知れない。私は自分では理由が分からず知らず知らずの内に他人を敵に回していることがよくあった。ある人物からむやみやたらに敵を作るなよと言われたことがあったし、お前友達無くすぞと言われたこともあった。私は主観的には他人に対して無礼な態度を取ってるつもりはないのだが何故かその他人が私に対して敵意を抱いていることがよくあったし、仲の良い友達と喧嘩別れすることもよくあった。私は従って自分が謙虚で心優しい人間であるという主観的イメージを持っているが客観的に見てみるとやはりその逆こそが私の本性かもしれず自分でも気付かない内に他人を傷つけていたのかもしれないのである。

岸田秀は言う。「人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だという一定のイメージを持っている。自分が生きるのが下手だというのも、このようなセルフイメージの一例である。ところで、わたしがわかりきっていることだと思っているのはこの点なのだが、このセルフイメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人々に対する当人の期待ないし要求の反映なのである。いいかえれば、当人のセルフイメージから判明するのは、彼がどんな人間かということではなく、彼が他の人々にどんなことを期待ないし要求しているかということであり、セルフイメージは、その期待ないし要求を正当化する根拠として必要不可欠なものである」
要するにセルフイメージには客観性が全くなく、セルフイメージとは自分が他人からどう思われたいのか期待している主観的認識に過ぎないというのである。これには私はおもい当たる節がある。私はどうも他人から高い評価を期待していて、その主観的自己評価の基準値が高い為に普通の人なら何て事ない侮辱に対して私は普通の人以上に怒るのだと思われるのだ。

更に「自分は人によく騙されやすいというセルフイメージに関して言えば、こういうセルフイメージをもっている者は、その理由として、自分は人が良すぎるとか、人をすぐに信用するのでということを挙げたがるけども、こういう自己判断からその主観的要素をぬぐい取って冷静に考えてみれば、そこからわかることは要するに、相手に対する彼の期待と、彼が相手から得る現実の利益との間に大きな落差があるということだけである」
これもよくある現象である。私はある奴に洗脳されてきたと散々語ってきたがそいつは「主観的」には私を洗脳してるつもりはなく「私の為に」私を教え諭していたのであろう。私は徹底的に侮辱され人格を否定されたのだから彼に対しては恨みしか抱いてなかったが彼はあくまでもその「主観的認識」においては私を正しい道へと導いているつもりであったであろう。私は彼に愛想つかされ彼との関係は終わったが、彼は私の事を否定していたのは私を虐めているのではなく正しい道へと導いているつもりであり、その対価としての見返りを求める基準値が高かった為に私から大して見返りを得られなかったので彼は憤慨して私に対して見切りをつけたと思われるのである。彼は異常なまでに寛大であった。私は彼なら何でも受け入れてくれると勘違いしていたが、彼は本質的におおらかで何でも受け入れてくれる寛大な人間ではなく彼は他人からの見返りを求めて他人に対して寛大な態度を取っていたと思われるのだ。私は彼が、ある漫画を全巻購入した時に彼がまだその本を読んでいないのにその本を貸してくれと言ったら貸してくれたのである。こういう要求をする私は確かに我が儘で傲慢であるが彼は優しい人間だから漫画を貸してくれたのではなく私から対価を求めて漫画を貸してくれたのではなかろうか。

そして岸田は「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である。人間は自己正当化によってかろうじて自己の存在を支えられており、自己正当化が崩されれば、自己の存在そのものが崩れるのである。従って、相手に対して不当な要求を持ち出す場合、不当な要求を不当と知って持ち出すということは、なかなか出来るものではない。まずそれを正当化する必要がある。そして正当化の根拠としてよく用いられるものの一つが、セルフイメージである。いやむしろ、セルフイメージとは正当化の体系であると言った方がいい。この正当化の必要が大きければ大きいほど、当人のセルフイメージは、他の人々が見るところの彼のイメージとずれてくる。私はよく人に誤解されると言う人がいるが、こうした発言は、このずれの主観的知覚を表しており、自分は自分を正解していることが暗黙の前提となっているが、このような前提には何の根拠もない。」
これは私には痛かった。私は「主観的」には自分が謙虚で心優しい人間だと思っていたがこの「主観的認識」には何の根拠もない。私は従って何の根拠もない「主観的認識」をセルフイメージの体系とし持っておりそれが自己正当化の根拠になっていたのである。もう一度繰り返すと、私は度々他人を怒らすことがあったが私は客観的には確実に傲慢で我が儘で他人の気持ちの分からない人間なのである。つまり自己認識における自己評価により導き出されたセルフイメージよりも他人に見える自分の方が恐らく「客観的」には正しい自分なのである。

私はある奴に洗脳されて人生が終わったと散々書いてきたが、その原因は自分にあったと思われる。私の無知と気の弱さに原因があったのだ。他の人間なら洗脳をされても騙されることはなく、彼に自分を否定されてもやられた程度にやり返すことが出来るであろう。私にはそれが出来ずに洗脳されたと思われるのである。つまり、私にとっては彼が絶対的な存在者であったが、そう見えたのは彼が「客観的」に絶対的な存在者ではなく私が無知だからそう見えたのであり、他人には彼の策略は見抜くのは容易いことで、自分を否定されてもしっかりと「反論」出来、彼を打ち負かすことが出来たであろう。私が神経症になった原因は「反論」出来ない屈辱にあった。そして誰にもその苦悩を語れないことにあった。私は彼の悪口を言う人間が非常に羨ましかった。私も悪口を言いたかった。しかし、彼の復讐を恐れて友達に彼の悪口を言うことが出来ないのであった。(彼は私が彼に対して他人には悪口を言わないように洗脳してたとも思われるが)私は彼が傲慢で押し付けがましい奴だと思っていたが、彼は「客観的」に傲慢で押し付けがましい人間ではなく、私との関係性においてのみ私には彼が「客観的」に傲慢で押し付けがましい人間に思えるのである。別の人間にとってみたら、彼に傲慢な態度をとられたり押し付けがましい態度を取られても、しっかりと拒否したり、反論出来る為に普通の人には傲慢で押し付けがましい人間には見えないのである。

「たとえば、自分は人にあまく見られ、よくつけこまれると思っている人の場合、その主観的解釈の要素をぬぐい取って事実だけを抽出すれば、彼についての他人の評価は彼自身の評価より相当低く、他人は彼にとって不当と見える、受け入れがたい要求を出してくるということがわかるだろう。それが、彼には自分はあまく見られていると感じられるわけである。全ての場合がそうだというわけではないが、他の情報とも付き合わせて、彼はたぶん、自己評価に関して、他人をどの程度容認すべきかに関して葛藤があり、つまり、彼は、一面では高い自己評価を求めており(だから、低く評価されると、あまく見られたと怒る)、他の面では低い自己評価を是認していて(その是認が、彼についての他人の低い評価を誘いだすのである)、そこに葛藤があり、その点が不安定な人であると推定できる場合もあるであろう」
私は確かに他人からの高い評価を求めており、実際の能力値よりも高いところに自己評価の基準を置いており、一方で低い自己評価も自分で認めている為に他人にちょっと侮辱されただけで尋常じゃないくらい怒ると思われるのだ。私は私を洗脳した彼が私の家に遊びにきた時に彼が私の為に用意されていた昼飯を断りもせずに勝手に食べていたが、私は注意を出来なかった。これも一連の症状で彼は「客観的」に傲慢なのではなく、他人が容認すべきと思っている基準値が高く、私が他人の要求や押し付けがましさに抵抗出来ず、葛藤がある為に私と彼との関係性の間においてのみ、私には彼が傲慢で押し付けがましい人間に見えるのである。(彼は「主観的」には自分が傲慢で押し付けがましい人間とは思っていないだろう)

私は自分の性格には本当に苦慮した。私に好意的だった人間がなぜ私に敵意を抱くのか。私に好意的な人間になぜ愛想をつかれるのか。仲の良い友達となぜ喧嘩別れしてしまうのか。私はある種のコミュ障だと思われるが人間関係でしょっちゅう頭をぶつけるのであった。私は葛藤のただ中に置かれたが20代の頃に岸田秀に出会い私は私が抱いてる葛藤の派生原因の回答を岸田から与えられた気がしたのだ。岸田理論は目から鱗であった。当時の私には岸田は神に見えたものだ。

私は集団ストーカー被害者であるが集団ストーカーが終わらないのも私のこの性格と無関係ではないかもしれない。集団ストーカーには私は傲慢で我が儘で冷酷で他人の気持ちの分からない人間であると思われているのかもしれない。そのために集団ストーカーは嫌がらせを止めてやろうという気が起きないのかもしれない。集団ストーカーからは岸田秀の名著「フロイドを読む」と思考送信がしょっちゅう送られてくるのだが、集団ストーカーは私の性格を省みろとメッセージを送っていたのかもしれない。

みなも岸田理論に従って自己分析をしてみては如何であろうか。新しい自分を発見出来ると共に新たな自分を構築出来るかもしれない。

因みに岸田秀は暇でゴロゴロする生活が大して苦痛ではなく、仕事に追われるぐらいなら暇でゴロゴロした生活をした方が嬉しいらしいのである。岸田秀は退屈を退屈と感じない才能があるらしいのである。この岸田の才能は私は羨ましい。私は今は暇で暇で仕方がなくそんな生活が異常に辛く苦痛で耐え難いのである。自殺も考えるくらい辛いのである。人間は何かすることがないと精神が駄目になるのである。私は退屈と暇が大嫌いで何かしてないと頭がおかしくなるのである。だから何か生産的な活動をしたいと思っている。そうでもしないと自分が終わりそうで怖くなるのである。終わり。