集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

何も信じず何も依拠しない生き方

私は以前にブログで自分は反自民党の左翼だと書いたがそれは間違いである。私は何も信じず(何も信じないことを信じる)何にも依拠しない生き方を信条としてるのでここで訂正しておきたい。

私は何かにアイデンティファイすることがない。何かに依拠するのが嫌なのだ。従って私は左翼でも右翼でもない。ありとあらゆるものにアイデンティファイしない。それは、自由が保証されるが、全て自分で決めなきゃいけないので大変ではある。しかし、何物にも依拠しない生き方が自分にはあっているのだ。従ってアンチ的姿勢をとることもない。それは何かに依拠することになるからだ。従って反自民党という立場は正確には正解ではない。だけど、自民党には基本的に反対の立場であるために、とりあえず反自民党の立場であると公表したのだ。

仏教では何も信じてはならず何物にも依拠してはならず何も所有してはならないと説く。こういう考えに依拠してると言えるから、仏陀の思想は無思想の思想と言えるだろう。同じく無宗教の宗教であり、無信仰の信仰であり、無哲学の哲学であると言えよう。こう考えるのが間ともだと思うのだが、私がみたところ、現代人は何かに依拠して生きたがってるように見える。本当の自分という幻想も自己実現という幻想も人気があるのはその為であろう。しかし、なにものも信じず、なにものにも依拠しない生き方は楽である。帰属感もないがそれでいいと思ってる。状況に応じて自分を臨機応変に変えるのは楽しみである。みんなもこういう生き方をしたら楽になるのにと思う。しかし、養老孟司が指摘してる通り現代日本は1神教化しており、何かに依拠する生き方の方が正しいと勘違いされてるだろう。それは間違いであると言いたい。なにものにも依拠しない生き方こそが至高である。やはり、仏教の思想が浸透すれば世の中は幸福になるだろう。(キリスト教的なミッション精神を持たずに仏教を普及させる為にはどうすればいいだろうか)昔の日本には仏教があったが江戸時代に日本を訪れたヨーロッパ人が日本人には所有欲がないとびっくりしてる。家が火事にあって全てを失ってもケロッとしてると驚いていたのだ。今の日本人とは真逆な国民性があったと言えよう。今では日本は資本主義社会の影響もあって所有欲の塊であろう。ヨーロッパも質素な生活をすることがブームで日本でもブームになりつつあるが、結局のところ人類はドン底も頂点も味わって中道に近付いていると言えるのかも知れない。そうして、まるで仏陀の人生を追体験するが如く人生を歩み仏陀に近づいているだろうか。それで自然と人類は1神教から離れていくのだろうか。

とにかく私は左翼でも右翼でもないのよろしく。