集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

私と母親

私は高校を卒業して板金会社に就職したのだが、仕事は単調で簡単であった。主に家の屋根の製造をしてたのだが機会でコイルを潰して屋根を作り、出来たら仕事場に持っていくだけであった。初任給は僅か12万だったが自分で働いて金を稼ぐのは良いものであった。給料を初めて貰った時は嬉しかった。作家のゴーリキーがどんな仕事でも自分で金を稼ぐのは良いものだと言ってたがその通りだと思った。しかし、仕事自体がつまらなかったので私は僅か4ヶ月で板金会社を辞めてしまった。会社の社長はショックそうにしていた。社長に会社を辞める時は仕事を見付けてから辞めるんだよ、と言われた。私は1週間くらい遊んだら次の仕事を見付ける予定であった。母親に今日仕事を辞めてくると言ったら母親は強いショックをうけてその日の仕事を休んでしまった。何も死ぬわけではないのに何故そこまでショックを受けるのか。私は不思議だったが、恐らく自分だけ働くのが嫌だったのであろう。母親はそれだけ私に働くことに期待していた。期待過多であった。私は1週間くらい遊んだら働く予定だったから何もそこまでショックを受ける必要はないと思っていた。私は10代20代はなんて自由なんだろうと思っていた。好きな時に働いて好きな時に辞めることが出来る。私はそんな若者ライフを楽しもうと思っていた。私の未来は開かれていた。私は解放感で一杯であった。しかし、そんな私が抱いていた開放的な気分は次の日には終わりを迎える。翌日会社から帰ってきた母親が開口一番に「面接行ってきた?」と聞いてきたのだ。私は唖然とした。仕事を探してきたなら分かるが、面接行ってきた?である。この人は私が働くことにどれだけ期待してるのだろう。普通の親なら1週間くらいは猶予を与えるだろう。1週間くらい遊んだら仕事を探すんだよ、くらい言うだろう。しかし、私の母親は違った。仕事を辞めた次の日に私が面接に行くことに期待していたのだ。だいたいが、仕事を辞めた次の日に面接に行くこと自体が不可能である。会社の都合もあるから希望の職場が見付かっても電話をしたその日に面接に来て下さいと言われることはないだろう。母親はそんなことも分からなかったのである。本当に馬鹿だと思ったが、私は母親にそう言われて働く気が完全に失せてしまった。母親は私の事を全く気にかけてないのは明らかで自分の都合のことしか考えていなかった。そして、前にも説明したが私の母親は私に愛情がなかった。私は母親から愛情を感じたことは一度もない。私は愛情に飢えていたが、私は私に愛情を抱いてない人間を喜ばす為だけに働かなければならず、そんな人生は私には全く拷問でしかなかった。私の事を愛してない人間の為に働くとか私には無理であった。私は片親で母親と2人で生きてきたから、母親に愛情がないことを認めると私のことを愛してる人間はいなくなり私は無のドン底に落ちてしまう。それが怖かったのだろう。それで、私は働くことが出来なくなってしまったのである。私は働いていた頃は稼いだ金を家に入れていた。家族の為を思って金を入れていたのに母親には私の想いが届いていなかったようである。母親は私が仕事を辞めるかどうか不安だったのであろう。それで、私が僅か4ヶ月で仕事を辞めた為に嫌な予感が的中したのであろう。だから、私に働いてもらいたく私にプレッシャーをかけたのであろう。しかし私は働く気満々であった。自分で働いて金を稼ぐのは良いものである。その喜びはあった。仕事自体はつまらないので直ぐに辞めてしまったが、私は若者ライフを満喫するき満々であった。勿論働いて稼いだ金を家に入れる気持ちもあった。母親はそんな私の想いに恐ろしいほど鈍感であった。自分の都合のことしか考えておらず私の気持ちに恐ろしいまでに鈍感であった。そんな人間を喜ばす為だけに働くとか私には不可能であった。私は働きたくても働けなくなり、ニートになってしまった。私の人生は10代で終わってしまった。それからは毎日がつまらなかった。死んだような人生を生きていた。母親が変わることを期待してたが変わる気配は全くなかった。私は異常に苛立っていた。私は若者ライフを満喫したかった。しかし、出来ない。私が働くことは母親が私に愛情が無いことを認めることになり、私の存在価値がゼロになってしまう。愛情がない人間を愛情ある人間に変えることは絶対に不可能である。ある対象に対して愛情を抱いてない場合、絶対にその対象を愛すことはない。だから、私は母親には愛されず、惨めであり、そんな状態で働くとか不可能である。私は焦っていた。無駄に時間だけが過ぎていく。どんどん歳を重ねる。私と同年の人間は皆働いて若者ライフを満喫していた。私も満喫したかった。しかし、出来ない。全くどうしょうもない人生だった。そして私の苛立ちと怒りが爆発して母親に暴力をふるうようになった。話し合いは毎日した。夜遅くまで話し合うこともあったし、次の日の朝に話し合うこともあった。母親の仕事の時間が遅れることもしばしばあった。しかし、実りある話し合いは遂に実現しなかった。私は毎日母親に暴力をふるった。母親は私に毎日殴られた為に顔がパンパンに膨れ上がった。母親はそんな状態でアパートのゴミ拾いに参加した。自分の悲惨な状態をアピールして気にかけてもらいたかったのだろう。しかし、誰にも気にかけてもらえなかった。世間とは冷たいものである。ある時そんな母親の状態に異変を感じた母親の職場の社員が私の家にやってきたことがある。どうして暴力をふるうのかと問い詰めてきたのだ。私は正直に母親には愛情がないからだ、と言った。しかし、私の気持ちは分かって貰えなかった。愛情に飢える人間と関わるのは面倒くさいのだろう。それで、私の暴力に耐えきれなくなった母親は友人の家に逃げてしまった。私は母親の仕送りで生活することになった。確か私が24くらいの時だったと思う。私に友達がいて、私の他人との接点はその友達くらいであった。しかし、その友達も私が26になった頃に私の元に遊びに来なくなった。26歳でニートの人間とは付き合いたくなかったのであろう。私は完全に孤独になった。母親は友達の家に逃げて1年くらいして帰ってきた。母親は何も変わってなかった。私が23の時に山形の合宿教習所に1ヶ月ほど行ってたことがあったのだが、その1ヶ月の間に母親は多少は変わってるかなと期待したが全く変わってなかった。やはり、一旦愛情を持たないとその対象を愛すことは絶対にないのである。

赤十字病院に勤めてた父親が鬱になり仕事を辞めてタクシー会社に就職した。私がニートになってから、父親がタクシーに乗って私の家に来たことがある。私はタクシーに乗せられてドライブをした。父親は私に、何で働かないのと、言った。私はとてもじゃないが働ける精神状態ではなかった。私のことを愛してない人間を喜ばす為に働くとか私には拷問でしかなかった。

それから月日が流れニートになってからもう7年も経っていた。ある時母親の姉が私の家に訪ねてきた。母親の姉は私に母親がなんと1000万の借金をしてたと告げた。私は愕然とした。母親は自分の稼ぎだけでは私を養えなかったのである。給料が相当低かったのは想像できる。二人くらしなら20万もあれば足りるだろう。だから、母親の給料は20万人以下だったことになる。勤めて10年以上になる人間の稼ぎが20万以下とは少なすぎる。それでどうやって私を学校に通わせたのだろうか。謎だが、学費はもう払う必要はないのだから、私がニートになったとしても生活は可能であろう。しかし、母親は借金をしてたのである。その月の生活費が五万足りなくなり闇金融業者から金を借りたと言うのだ。更に驚いたことに母親は会社の金にも手を付けていた。私は更に愕然とした。馬鹿な母親だったと思うがまさか犯罪を犯すとは思わなかった。会社の人とどういう話し合いが行われたか知らないが母親は捕まることはなかった。結局1000万の金は返せるはずがないので破産宣告することになった。アパートの家賃は滞納してたので出ていくこととなった。私達はそれぞれ別の所に住むことになった。私の知らない間に私の住まいは勝手に決められていた。私は腹が立った。何故なんの相談もなしに私の住まいが決められていたのだろう。勝手に話が進んでいたので腹が立った。母親は生活保護を貰い私とは違うアパートで暮らすことになった。犯罪を犯したのによく申請が通ったと思ったが、私と母親が2人暮らしをするとまた私が暴力をふるうからと言う理由で住まいは別々にされていた。私の生活費は母親の弟が払うことになった。払えるのは2ヶ月までだ。それまでに仕事を見付けてくれとのことであった。そんな簡単に仕事を見付けれるのなら、私はとっくの昔に働いているよと、思った。ここの家系の人達はなんて人の気持ちの分からない人達なんだろうと思った。全く馬鹿な家系だ。私は独り暮らしをすることになったが働く気は一切なかった。私が働くことは精神的な死を意味する。とてもじゃないが働けなかった。私は青春を無駄にしたのだ。皆友達と遊び彼女を作ってるのに私にはもう友達もいなかったし、彼女を作ることなんぞは不可能であった。私の精神は死んでいた。何の活気もない生活を7年も生きてきたので当然であった。そんな私に集団ストーカーは容赦しなかった。独り暮らしをするようになってから集団ストーカーの嫌がらせが激化した。凄かったのは騒音であった。アパートが揺れるくらいの凄まじい騒音であった。私は恐怖した。私が以前に住んでたアパートでも騒音があったから今度のアパートでは静かに過ごせると思っていたが集団ストーカーは容赦なかった。これはたぶん集団ストーカーの仕業だと思うがアパートの居間のドアが勝手に閉まりバン!と大きい音をたてた。そんなことが3、4回あり、近隣の住人が騒音でやり返してきたのである。凄まじかった。部屋が揺れるくらいの凄まじい騒音であった。私はまた、騒音に悩まされるのかと思いげんなりした。外出すると咳払いの嫌がらせが相次いだ。その頃は集団ストーカーのことを知らなかったから何か怪しげな連中に狙われているのではないかと思った。それで騒音被害が余りにも酷いので部屋の中では常にヘッドフォンをして暮らすようになった。地獄のような毎日であった。それから半年経ち父親から母親が病気にかかり入院したと手紙が届いた。私は病院に行って母親が入院している病室に行ってみるとそこには70代くらいの老婆に見える母親がいた。私は強いショックを受けた。一体何の病気にかかったのだろう。病名は分からなかったが私が病院にかけつると母親が「どうしたのよ!」と驚いていた。私は父親から母親が入院したと手紙が届いたと説明した。母親は嬉しそうにしていた。春間近な時であった。私は早く暖かくなればいいねと言おうかと思ったが言わなかった。言っても拒否られるような気がしたからだ。病院には母親の姉もかけつけてきていて私に「自業自得だ」と言った。母親は病気にかかったのだから別に自業自得ではないだろう。これは今にして思うと集団ストーカーに言わされていたのだろう。母親の病気も集団ストーカーの電磁波にやられたのだろう。これはたぶんだが、母親は私の元に行けと集団ストーカーに指示されたが私に殴られるのが恐くて集団ストーカーの指示を無視したのだろう。それで報復にあったと思う。私は母親の余りの変貌ぶりがショックで病院の休憩室に行ってうつ伏せになった。病院のナースは母親の姉のことを母親の娘だと勘違いしていた。従ってこの突然老け込む病気は今まで例にない病気だったのだろう。電磁波にやられたとしか思えない。私が母親の入院室に行ってみると母親は安心したようで私に「もう帰っていいよ」と言った。どこまでも自分の都合のことしか考えることの出来ない女だと思った。私は母親の姉に洋子(母親の名前)はもう働けないよと言われた。その事を母親に告げると母親は「嫌だ。働くんだ」と言った。それから毎日私は母親の元を訪ねた。母親は腹にチューブを刺されていた。それから暫くして私は何故か母親の元に行くのが嫌になった。暫く病院にいかないと電話の録音に母親のメッセージが入っていた。母親は涙声で「そうし(私の名前)バスタオル持ってきて」と入っていた。母親は死の恐怖を感じていたのだろう。だから一人でいることに耐えられなかったのだろう。それで私に来てもらいたかったのだろう。母親の弟から電話がかかってきて、「そうし、病院に行ってやれ」と言われたので病院にいくことにした。母親は病室を移されていた。症状が悪化したようであった。母親が入院している病室に行ってみると母親が「何で来ないのよ」と泣きそうになりながらいった。私は母親に「俺が苦しんでる時にお前は俺に何かしたか」と言った。母親は無言になった。それから毎日病院に行ったが母親の病状はよくならなかった。日増しに老け込んでいった。私は我々親子は何でこんなに不幸な目に遇うのだろう、と思った。母親は不幸であった。子供の頃に両親に愛を与えられず育ち兄弟関で差別されて育ったようである。母親は両親に自分のことを分かってもらいたいから姉の教科書をわざと隠したりしたそうだ。そうやって自己アピールをしたのだろうが、何でお姉ちゃんの教科書を隠したの!と怒られ自分の気持ちは分かってもらえなかったのだろう。母親は余りにも差別されて育てられたので自分は捨て子だと思ったそうだ。そして、母親は神奈川の高校に入学し、卒業して地元に帰って来て、大人になり家族持ちの男性と恋に落ち私が産まれたのだ。母親は子供の頃から不幸であったが、家族持ちの男と恋に落ち子供を産むとかついてなさ過ぎる。自分一人の稼ぎで私を育てなければならず、生活をしてくのは何かと大変だったであろう。実際大変で生活は貧しく、八畳1間の風呂無しのアパートに住んでいた。オモチャとか買ってはもらってたが生活は貧しく贅沢は出来なかった。私は不幸であった。子供の頃に愛されず育った人間は我が子を愛せないのである。従って私の母親は私のことは愛せなかったのである。私は片親の2人暮らしだったが唯一の肉親に愛されなかったのだ。何て不幸なんだろう。片親、貧乏、愛情なし、知性なしの四点セットであった。私はずっと貧乏続きだった為に、高校を卒業し、就職して働いて稼いだ金を家に入れていたのである。その私の気持ちを母親は反故して私が直ぐに仕事を辞めるのではないかと疑っていた。私にはそれが許せなかった。家に金を入れてるのだから、次の仕事は直ぐに見付けるに決まってるではないか。家のことを思い金を入れてるんだから。母親は入院しても何も変わってなかった。やはり、人間は一度愛せなくなるとその人間は2度と愛せないのだ。私はそんな母親にムカついて「死ねばいいのに」と言った。母親はベッドから起き上がり絶句した。私は何も言わず病院を後にした。途中傘を忘れた事に気付いたので病室に取りに行った。母親は私の事を見ていたが、私は母親のことを無視して帰った。翌日病院に行ってみると母親は意識が朦朧としていた。姉も来ていた。姉が「洋子。お姉ちゃんだよ」と言うと母親は「お姉ちゃん」と言った。姉は「そうしも来てるよ」と言ったが、母親は無言であった。母親には心電図が付けられていた。母親の友人の子供達も来ていた。病状はみるみる悪化していった。母親は全く口を聞かなくなった。そして心電図がピーと鳴った。母親が亡くなったのだ。母親の友人の子供達は「おばちゃん」と言いながら号泣していた。私は母親がここまで思われていたのかと思い驚いた。その時私は何故か笑顔になってしまった。不思議だったがたぶんこれは集団ストーカーに笑顔にされたか、集団ストーカーの感情が送信されてきたのだろう。それで母親が亡くなったので、母親を裸にして身体をタオルで吹いて納棺した。そしたら病院長がやってきて我々に挨拶をした。後からナースの人に聞いた話によると私の母親は明るく他の患者によく挨拶をしてたと言う。私は母親らしいなと思ったが、未来に死が待ってるとは知らず明るく振る舞ってた母親の事を思い胸が痛んだ。それから葬式をすることになり、長安殿を借りて準備をしたのだが、私は1通り仕事を終えたので一時的に家に戻ったのだが、すると母親に対する罪悪感が突然沸いてきて「俺が殺したんだ」と言い号泣した。翌日に母親の知り合いや親戚が集まり葬式をしたのだが、葬式が終わり皆で食事をとることになったのだが、母親の友人2人が何だか申し訳なさそうに帰ろうとした。何かを知ってるようであった。私は当時は不思議に思ったが今にして思うと母親は集団ストーカーにやられたと知っていたのだろう。母親の姉はその帰ろうとした2人に声をかけてせめて食事でもしていって下さいと引き留めた。私1人だけが塞ぎ込んでたが、皆ワイワイと明るく雑談をしていた。私は人間なんか所詮こんなもんかと思った。誰も私に気をかけなかった。母親の姉の旦那が所詮は他人事よと言った。その旦那は後に喉のガンにかかり3年前に死んだ。自分の死を自覚した時にどう思ったのだろうか。死がリアルに我が事となるととてもじゃないが他人事だとは思えなかっただろう。それで葬式が終わり母親の友人や親戚が帰り、私は母親の姉に呼ばれた。私は当時無職だったから、私のこの先について話し合おうとしていた。姉は「そうし、この先どうするの?」と聞いてきた。私は無言だった。すると姉は「もういないんだから」と言った。実の妹が亡くなったのに「もういないんだから」と言えるのである。何て冷たい言葉だろうと思った。先に説明した通り母親は親に愛されず育ち兄弟間で差別されて育ったのである。実に悲惨な人生を生きてきたのだ。人生はプラスマイナスゼロで出来ていない。不幸な人間はどこまでも不幸である。絶対に不幸から脱出出来ない。私は母親に恨みがあるが、母親はかなり不幸な人間だったと思う。私は母親から愛を感じたことはないが、しかし、母親には同情心があった。片親で貧しく兄弟もいない私を可愛そうに思ったのだろう。これは母親の母親、私の祖母にも当てはまる。祖母は愛はないが同情心はあった。これは祖母の代から連綿と続く体質であった。私も他人を愛すことは出来ないが同情心は持つのであった。私の家には風呂がなかったから、よく銭湯に行ってたのだがそこの銭湯でよく知的障害者に会っていたのだが、私はその知的障害者を見てなんだか可愛そうになり、帰りの後をついて行ったことがある。私は社会的弱者を見るととても可愛そうになるが、それも同情心があるからであった。優しさとはちょっと違うが、当然のように愛せない。私は愛しかたを知らない。愛なんかいらないと思っている。インチキであろう。愛よりも仏教の慈悲の方が上位の概念であろう。愛はいらないが慈悲は欲しい。私を救うのは慈悲だけである。もう1つ考えられるのは私達親子は自分を投影してると思われる。親から愛されなかった可哀想な自分を弱者に投影して憐れんでいるのである。これも優しさとは違うだろう。誰を可哀想に思ってるのか、その対象ではない。自分である。私は自分は優しい人間だと思ってたがどうもそれは違うようである。ただの自己投影の結果であった。セックス・ピストルズに「問題」という曲があるのだが、その歌詞の中に、「どこにも拠り所がないのだろう。1人ぼっちで寂しいのだろう。俺の所に来ても同情してやる気はないのさ」と言う歌詞があるが、この曲には救われた。一見冷たい言葉に思えるが、これは優しさの裏返しであろう。

それで私は1人暮らしをすることになったのだが、何故か知的欲求が強くなりよく本を呼んだ。図書館を2つ掛け持ちをして本を借りた。しかし、その時に読んだ本の内容はほとんど覚えてない。気に入った箇所はノートに書き写したりしてたが内容は覚えてない。一番衝撃を受けたのは岸田秀であった。心理学者である。私の中のNo.1はセックス・ピストルズジョン・ライドンであったが、順位が入れ替わった。岸田の書物は衝撃的であった。人間は本能の壊れた動物であり、本能に頼って生きていけなくなった為に滅亡の危機に陥り、滅亡を免れる為に自我と言う人為的構築物を作り下界との接点を何とか持つことに成功して滅亡を免れたと言うのだ。岸田の分析力は確かなもので説得力があった。基本的に相対的な見方でこんな見方もあるのかと衝撃を受けた。金はなかったが少ない金で岸田の本を古本屋で買った。今でも私のものの見方は岸田の影響下にありかなりお世話になった人物である。

私は27になってたが全く働く気がしなかった。母親が亡くなっても母親の亡霊は私にとりついていた。私が働くことは母親が私を愛してなかった事実を認めることになるのでどうしても働けなかった。今でも母親のことを思い出すとどうしょうもなく馬鹿な母親だったと思うが、爪の垢程度でも愛情があれば私の人生は違ったものになっただろう。愛情がなくても私に働くことに過度な期待を持たなければ私の人生は違ったものになっただろう。母親の中には私が仕事を辞めたら=2度と働かないと言う図式が出来てたようである。何故そうう図式ができるのだろう。私は家に金を入れてたのである。家族の為を思って入れてたのに母親は私を疑った。それが許せなかった。私を信じてればお互いに幸せになれたかもしれないのに。しかし、私の母親は私のことは愛してはおらず、私に働くことに過度に期待してたからお互いに幸福になることは不可能だった。母親とは何度も話し合いを重ね、その度に殴る、蹴るの暴行を繰り返したが母親は泣きそうになりながら「だって答えが分からないんだもん」と言った。私は働きたいだけであった。しかし、私が働くと、母親を喜ばすことになり、更に母親は私には愛情を抱いていないことを認めることになるので働けないのであった。母親を見捨てることも考えられるが、そうすると、母親は重荷がなくなり、楽になるのだから、母親を喜ばすことになるので、こっちの選択も取れず、私は働けず、かと言って母親を見捨てることも出来ず、にっちもさっちもいかない状態になった。私の母親は私の復讐を受けて死んだようなものだが、岸田秀が母殺しは母親を乗り越えると言う自分に課せられた問題から逃げたことになり母親に負けたことを意味すると語ってたがそういう意味では私は母親に負けたのだ。しかし、人間は私は思うのだが屈辱は絶対に克服出来ない。屈辱を感じたら屈辱によってやり返す以外に克服出来ないと思う。岸田秀の唯幻論は岸田の屈辱が内在化されている。親に愛されず幻想の世界で生きることになった岸田秀の屈辱克服の為に発明された思想である。唯幻論に寄れば全ては幻想であり、恋愛も幻想、国家も幻想、あらゆる価値体系も幻想、神も幻想、宗教も幻想、アートも幻想、家族愛も幻想の産物なのである。何かに依拠し、それを信じてる人間が自分が信じてるものが幻想と言われれば誰でも頭にくるだろう。岸田は母親に愛されず、何も与えられず育ち、自分の中に何もないものだから何かに依拠して安定した自我を築けてる人間に嫉妬して、それらの人間を幻想の中に引きずり込み劣等感を克服しようとしてたとしか思えない。私は唯幻論には恨み辛みがこもってると思う。岸田はそうやって全てを幻想化し何かに価値を感じていたり、信じてる人間を幻想の中に引きずり込むことによって屈辱を晴らしてるとしか思えない。岸田は自分は神経症は治ったと言ってはいたし、屈辱は受け入れれば良いと語ってたが、実は岸田は屈辱は克服出来てないのである。岸田は唯幻論に否定的な人間の存在も有難いと語っていたが、そりゃ有難いのである。劣等感補償になるのだから。自分のことを否定してくる人間は何かに価値を感じてる人間であって、自分の信じてるものが幻想であり、何の価値もないと言われるので腹を立てるわけであるが、そういう人間こそ岸田には実に有難い存在なのである。岸田は、愛の欺瞞性、母親と固い愛情で結ばれていたと信じてたが、それが幻想に過ぎないと分かったので、岸田と母親との関係が岸田と読者の関係にずらされて、それが再現され読者を幻想の世界に引きずり込むことによって屈辱を回避してるとしか思えない。私は鶴崎と言う奴に洗脳されて15歳で人生が終わってしまったと何度か書いてきたが、これは凄まじく屈辱的であって、屈辱には屈辱で返すこと以外に屈辱克服の方法は見出だせない。私は復讐心の塊であっていつか必ず鶴崎に復讐してやろうと思っている。屈辱を屈辱によって返さない仕方で克服出来た人間なんているのか?例えばヨーロッパ人が世界制覇したのも屈辱克服の為にあったとしか思えない。ヨーロッパ人は現地住民を神の名のもとに殺しに殺しまくり、奴隷と使役し、キリスト教を押し付けるのであった。ヨーロッパ人にとってキリスト教とは押し付けられたものであり、取捨選択して取り入れたわけではない。従ってヨーロッパ人はキリスト教との間にしっくりこない齟齬があって本当はキリスト教を信仰してなかったのである。そのキリスト教を押し付けられた屈辱を他民族にキリスト教を押し付けることによって屈辱を回避したとしか思えない。人間は屈辱克服は基本的に無理なのである。私はそう思う。私は毎日集団ストーカーに糞みたいな嫌がらせにあい嫌と言うほど屈辱を受けてるが、この糞みたいな犯罪、集団ストーカーを思い付いた腐れ低能馬鹿を殺してやりたい気満々であり、集団ストーカーに味わわされた屈辱を屈辱によって返してやる気満々である。貴重な人生の時間を犠牲にしてやりたいことが何も出来ず、無駄に時間を浪費する。こんな屈辱的な人生はないだろう。復讐心を持つなと言う方が無理である。ここまでされて復讐心を持たないとかただの馬鹿たれとしか思えない。復讐して当然であろう。

私が岸田秀に出会ったのは母親が亡くなった後だが私は母親に愛されてなかったことでは岸田と同じだが、岸田がちょっと特殊なのは岸田の母親は本当は岸田のことを愛していないのに愛してるふりをしてたことである。岸田の母親は岸田を劇場に継がせる為に岸田にありとあらゆる観念を植え付けて岸田を支配しようとした。岸田は自分は母親に愛されて育ったと思ってたが、強迫観念に襲われて日常生活で支障をきたしにっちもさっちもいかなくなり、何とかして自分の症状を解明出来ないか考えてた時にフロイドに出会い、自分の症状をフロイド理論を拠り所に分析した結果、母親の愛の欺瞞性が見えてきて、母親は自分を愛してるふりをしてるだけであって、本当は自分のことは全く愛してはおらず、自分の願望を満たすためだけに岸田を利用しようとしてた事実が見えてきたのであった。岸田にとってこれは屈辱的なことだった。許しがたいことであり、岸田は無意識下では母親に愛されていないことを知っており、そんな母親のことを憎んでおり、本音を言えば母親を叩き殺してやりたいくらい恨んでいた。岸田は母親に愛されてない事実を認めることは辛いものであったが、母親の愛の欺瞞性を認めないと強迫観念はなくならないのであった。そこで岸田は母親に愛されてなかった事実を認めることになるのだが、岸田は母親に愛されてない事実を認めてすっきりしたと語ってたが、私は母親に愛されてない事実を認めても全くすっきりせず、未だに母親の亡霊に囚われており、いざ、自分が働くことを想像すると強い恐怖に襲われるのである。(しかし、いざ働いてみると恐怖も何もなく何ともないのだが)私も岸田と同じく神経症持ちの人間であるが、私も主観的には母親に愛されてると思ってたが、何故か母親と一緒にいると強い不安と言うか孤独感に襲われるのであった。子供の頃はあまり気にとめてなかったが大人になり、会社に勤めて直ぐに仕事を辞めると母親は強いショックを受けた。私はそんな母親に疑問を抱き、たかが仕事を辞めたくらいでそこまでショックを受けるかと、思ったが、それで、仕事を辞めた次の日に仕事から帰って来た母親が第一声に「面接言ってきた?」になるわけである。母親が私の未来に想いを馳せてないのは明らかで自分の願望を満たすことしか考えてなかったのはどう考えても間違いない。どの親も我が子を思い大切にすると言う幻想が幅を聞かせてるが、これはまさに幻想であり、子供を愛せない親とは確実にいるのである。私の母親は私のことは愛してなかった。仕事を辞めた次の日に、「面接行ってきた?」とか、どう考えても馬鹿としか思えない。ひょっとすると私を無職にする為に集団ストーカーに言わされた可能性もないではないが、私が仕事を辞めたその日に母親は強いショックを受けて、仕事を休んでるのである。だから、私が働くことに相当期待してたのは間違いない。私が働くことに期待をするのは構わないが母親は余りにもそのことに期待しており私にはそれが重苦しく、しかも私のことを愛してない人間を喜ばす為に働かなきゃならず、そんなことは無理なことであった。私は若者ライフを満喫したかったが、その希望は叶わずニートになるしかなかった。全くつまらない毎日であった。好きでニートになる奴なんかほとんどいやしない。5ちゃんねるのニート板を見れば分かるが、誰も幸せそうにしてるわけではなく、死にたがってる人間もいて、どう考えても不本意ながらニートになっており好きでニートになってるわけではない。大概のニートは不幸である。彼等は親のせいでニートになったと語るがこの気持ちは分かる。私も母親がまともなら、まともじゃなくても、私に働くことを過度に期待してなかったら100%働いた。私は本心では働きたかったが、親のことがあってどうしても働けず毎日が死ぬほどつまらなく、将来が不安で毎日焦っていた。時間だけが無駄に過ぎていく。このまま歳を重ねるだろうかと、思う。何の代わり映えのない毎日。時間だけがどんどん過ぎ歳を重ねていく。気持ちは焦る一方である。普通子供に愛情があるなら我が子がニートになったら心配するものだが、私の母親は全く私のことを心配しておらず自分の都合のことしか考えていなかった。だいたいが、子に愛情を抱いていたら子供がニートになるはずがない。私は子供の頃は母親は間ともな母親だと思っていたが、ニートになってからこの人はちょっと普通と違うのではないかと、思うようになった。今でも母親のことを思い返す度に馬鹿な母親だったなと思うが、子供の頃はここまで馬鹿だとは思ってなかった。仕事を辞めた次の日に面接に行くとか不可能なのは自分だって退職して再就職をしてるのだからそれぐらい分かるだろう。しかし、母親は私に働いてもらいたい気持ちが強すぎて私に圧力をかけた。これがいけなかった。私がいつか働くと信用してれば良かったのである。しかし、母親は私が働くか心配でたまらず私のことを追い込み過ぎた。爪の垢程度でも私を思う気持ちがあれば私は働いたのに。全く馬鹿な女だ。どう合理的に考えても母親は死ぬ以外になかった。そうとしか思えない。私は母親との勝負に負けたのかは知らんが母親は死ぬ運命だったとしか思えない。私は母親の為を思って金を家に入れてたのに。母親はそんな私の気持ちが分からなかったようである。こんな糞みたいな母親の元に産まれなければ良かったとよく考えるが産まれてきてしまったものはしょうがない。自分に課せられた現実を受け入れる他にない。こんな最悪な人生を生きてきた人間が集団ストーカーの被害者に選ばれたのである。ある被害者の話によると不幸な境遇の人間が集団ストーカーの被害者に選ばれやすいとのことだった。私は片親だし、母親に愛情はなかったので被害者にはうってつけだったのだろう。殺意を抱くほどムカつくが現実は現実でしょうがない。全くもって納得出来ないが現実を受け入れて全てを諦める他にないのだろう。終わり。