集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

何故集団ストーカーは許されてるのか

集団ストーカーがまかり通る世の中なんて被害者なら誰だって間違ってると思うだろう。私も長いこと被害に遇い続けて人生を犠牲にし今は絶望的な人生を送ってるのでそう思う。しかし、集団ストーカーにはどうも被害者が死なない程度なら何をしても許される理由があるらしいのだ。その謎についていつも考えるのだがどうしても分からない。私は昔自転車をしょっちゅうパンクさせられていたので、今は自転車を部屋の中に置いてるのだが、よく自転車のサドルを低くされる嫌がらせにあう。外出先で自転車を置いて店の中にいる間にサドルを低くされるわけでなく、昨日までは自分に丁度いい高さだったのに、翌日何か目的があって外出し、帰って来て自転車に乗ったらサドルが低くなっているのである。これは集団ストーカーは不法侵入してるわけでただの犯罪行為だがこんなことをしても許されるらしいのだ。だから自転車を部屋の中に置いといても意味はないんだが今の所嫌がらせはサドルを低くされるだけでパンクとかの被害にはあってない。昔はタイヤに傷をつけられてそこからチューブがはみ出しそのチューブが擦れてパンクすることもあった。昔は金が本当になかったから自転車を買い換えるわけにもいかず仕方がなくタイヤの傷を塞いで自転車に乗っていた。

昔は今と違って被害が尋常じゃなく多く部屋の中にいると壁を叩かれたりしたし、外出するとしょっちゅう咳払いの嫌がらせにあった。私は最初は集団ストーカーはカルト集団だと思ってたが、集団ストーカーに実は普通の人間は知らない振りをしてるだけで集団ストーカーのことは知っていると気付かされてカルト犯罪ではないと分かった。そうすると集団ストーカーの目的が気になるわけで、集団ストーカーとは思考盗聴をして頭の中で考えたことを仄めかしたりしてくるわけで、たぶん集団ストーカーはこの思考盗聴がキーポイントだと思う。思考盗聴器を使えば人間、はたまた他の生物の謎も分かるようになるだろう。思考盗聴器を使えば人間の最大の謎の一つである、意識や死の謎が解けるかもしれないし、動物が何を考えて行動してるかも分かるだろう。つまり、生命の謎の解明に一役買うだろう。例えば今死につこうとしてる人間を思考盗聴すれば人間が死の間際に何を思うか分かるだろう。人によっては三途の川が見えたと言う人がいるが、これはただの脳内現象で文化的背景があると思われるが、その死の間際の脳内現象も分かるだろう。或いは死んだ場合に死の瞬間に脳内で何が起きてるかもわかり、かなり興味深い実験装置と言えるだろう。(従って集団ストーカーは一生終わらない可能性がはある)その他に、国どうしで違う概念的理解も深まるだろう。言語とは病的現象であり、言語は対象その物を完全に言い表すことは出来ない。しかし、人間は対象そのものを言語化して言語により理解してるわけで使う言語によって対象は違って見える。従って世界に客観性はない。カントじゃないが、目の前のコップを見てコップと言ってるわけではない。この国どうしで違う言語を話す我々地球人はそれぞれが概念的にちょっと違った世界の中で生きてるはずである。その概念的な違いを思考盗聴器を使って脳内を覗けば分かるかもしれない。例えばリンゴ1つとってもクオリア的に人それぞれ違ったリンゴ感があるわけで、その違いが分かるかも知れない。実に興味深いことである。更に思考盗聴器、或いは音声送信兵器は医療の分野でもその力を発揮するだろう。目の見えない人に下界の映像を送信出来るし、耳の聞こえない人と意思の疎通も可能だ。しかし、これには問題があって誰の脳の中に写る映像を送信するかだ。誰だって自分の脳の中を見られるのは嫌だろう。もちろんビデオカメラで撮った映像を送信出来るだろうから、それなら問題はないかも知れないが、映像を送信される側も映像を送信する機械と自分の脳が繋がれるのは不快かもしれない。私は集団ストーカーは人間、或いは他の生物の理解を深める為の実験だと思ってるがだとしたら何故我々被害者は毎日苛めにあうのだろうか。これが分からない。人間を絶望的な状態まで追い詰めないと分からないことでもあるのだろうか。集団ストーカーが許されるとしたら何か価値のあることに思考盗聴器を利用してるだろうから、やはり、人間、ひいては生物全般の謎を解明する実験以外に考えられない。だから、学習として普通の人々が思考盗聴してる可能性はあるのだ。私は集団ストーカーに実は普通の人々も集団ストーカーを知ってると気付かされたと書いたが、何故知ってるかと言うと普通の人間も思考盗聴してるからである。私は被害者予備軍以外は全ての人間が集団ストーカーを知ってると訴えているが、ある被害者のメール仲間はその説に反対していた。しかし、集団ストーカーが人間も含めて生命の謎をとく実験なら普通の人々が思考盗聴してる可能性はあるだろう。

集団ストーカーはその被害者に選ばれたら嫌でも人生を犠牲にしなきゃならないのだから、こうなったらどこまでも利用してやれと、考えてるだろうか。私は被害歴28年になるおっさんで恥ずかしながら恋愛経験がなく恋愛出来るのは年齢的にギリな年齢になったから早く終わってもらいたいが、私の知ってるメール仲間は50間近になっても集団ストーカーが終わらないし、別の知ってる被害者は被害歴40年で50歳を過ぎている。私が仮に50を過ぎても集団ストーカーが終わらなかったとしたら本当に人生に絶望する他になく、死ぬまで集団ストーカーを呪うが何だか最近はそうなる可能性が高いんじゃないかと思えてきた。私はいつも1人だから人生が退屈でつまらなく耐え難いので誰かパートナーが欲しいと考えてるが50を過ぎたらパートナーを見付けるのは困難であろう。若い頃から何も出来ずに生きてきたから悔恨の念が凄まじく何とかして人生を取り戻したいと考えてるがこのまま集団ストーカーは終わらず生きれなかった人生を取り戻すのは不可能なような気がしてきた。私の知ってる50代の被害者に集団ストーカーに人生を潰されて後悔はないかとメールで尋ねたら後悔するよりも前を向いて歩いた方が良いといった返事がかえってきたが、私はそこまでポジティブになれない。時間は有限であり、若さと言うのは余りにも貴重だ。その若さを私は失ったわけだが、若い頃に恋愛でも出来てればまた違った感慨があったであろうが、一度も恋愛経験はないので私は後悔しきりである。このまま集団ストーカーが終わらなかったとしたら恋愛することが絶望的になってしまう。だから早く終わって貰いたい。多分私は思うのだが恋愛をしたがる男は女と愛し愛される経験がしたいと言うよりも、恋愛経験を積み色々な女を知ることは男の沽券に関わるのだろう。だから女を知りたいと思うのだろう。要するに恋愛とは打算的産物であり、相思相愛とか幻想である。幻想と知ってても私は女を知りたい願望が物凄く強い。私も確実に男の沽券に関わるから恋愛をしたいのであって、愛し愛される関係を築きたいとか、女の子を喜ばせたいとか或いは愛のあるセックスをしてみたいとかの願望よりもやはり、全ては男の沽券に関わる打算的願望であろう。私の人生の1ページに恋愛と言う項目を書き込みたいだけであろう。そうして優越感に浸りたいのだろう。女に愛されると言う経験もしてみたいのも男の沽券に関わるからである。ただ単に優越感に浸りたがってるに過ぎない。恋の希望とか絶対にあり得ない。モテない人間はどうやってもモテず異性と恋愛をするのは不可能なのだ。私もそうなる可能性は高いが、所詮恋愛は打算的願望に過ぎず馬鹿な願望を持たずある程度欲望を相対化して生きる道も考えられるが今の私には難しい。私みたいな打算的人間に仮に女が出来ても付き合ってくれた女に対してかなり失礼な話で愚かと言えばかなり愚かであるが、恋愛をしたことのない劣等感が凄まじく早く恋愛をしてみたいと思う。私はあまり愛と言うのを信じてないのだが、だから、別に愛し愛される関係を築きたいとは思わないのだが、しかし、彼女は欲しい。これは自分のことしか考えておらず女の立場に立って考えていない為に、これでは彼女は出来ないだろう。(女が私を拒絶するのは私が彼女が欲しいのは彼女の立場に立って考えず自らの欲望を満たしたいだけなのが透けて見えるからだろう)しかし、全てにおいて自分の欲望が先行してしまう。仮に集団ストーカーの被害者に選ばれず自分の人生を生きれて、彼女を作れたとしたら後悔することもなくプライドを保ち生きれただろうが、本当に私は若い頃に何も出来なかったので、毎日昔を思い出して酷い後悔の念に襲われるのだ。

我々集団ストーカー被害者は被害者に選ばれたら人生を諦める他にないのかも知れない。そんな人生に一体何の意味があるのだろうか。時々人生の意味について考えるが、人生の意味が価値を持つのは他者との関係性の中にしかない。従って他者との関係を破壊された集団ストーカー被害者が人生に意味を見出だすのは難しい。人間はどんなに辛くても人生に意味を見出だせれば生きていけるかも知れないが、私は何も意味を見出だせず凄まじく虚しい毎日を生きている。仮に集団ストーカーが終わったとしても若い頃に何も出来なかったし、オッサンなのでしたかったことや、やりたかったことが大して出来ず、人生を取り戻すなど不可能に近いのだから人生が絶望的なのは変わりないだろう。集団ストーカーが終わって多少マシと言う程度である。こんな人生に何の意味があるのだろうか…。全くやってられない。何たる人生だ全く。誰もこんな人生は生きたくはないだろう。集団ストーカーの被害者に選ばれなかっただけでも感謝しろよと言いたくなる。私の見立てではまず間違いなく普通の人々も集団ストーカーのことは知ってるのだから、被害にあわず自分の人生を好きなように生きれる人間は感謝すべきであろう。(しかし、他人が集団ストーカーの被害者に選ばれないことに感謝して生きるのは我々被害者からしてみたら実に屈辱的である。同じ苦しみを味わえよと思う)私は集団ストーカーの被害者に選ばれただけでも最悪なのに、私の生育環境は最悪で、片親で貧乏で母親は頭がかなり悪く愛情もなかった。そんな母親とずっと二人きりで生きてきたのである。(途中から体調を崩した祖母も加わって三人暮らしになったが、私はそんな祖母とも上手い関係を築けず祖母のことが嫌いであった。祖母は私の母親のことを愛しておらず、母親は兄弟間で差別されて育ったので自分は捨て子だと思ったそうである。私の母親は三人兄弟だったが祖母は三男坊の息子と一緒に暮らしたかったようである。しかし、息子には家族がいたし、母親の姉も家族がいたので私の母親が面倒を見ることになったのである。祖母は私の母親の事を愛してなかったが、はからずもがな愛してなかった私の母親に面倒をみられることになったのである。因果は巡るのである。そして、私の母親は愛されず育った為に私の事を愛せないのである。親に愛されず育った人間は我が子を愛せないのである。仮に私に子供が出来たとしても私は我が子を愛す自信はない。しかし、母親の抑圧的態度が嫌いだったから子供の自由は尊重するとは思う)こんな悲惨な人生はあるだろうか。あるかも知れないが私も相当だろう。だから、人生に幸福感を感じて生きていける人間は感謝の気持ちを持ち謙虚に生きてもらいたいものである。終わり。