集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

慈しみに生きる

私は自分が救いようもない人間だと知っているが、私はこれからは慈しみに生きることにした。慈しみとは人間はもちろんのことこの世に存在する全ての生命体に注がれるものである。愛は人間にしか注がれない狭窄的な感情であり、しかも、その愛は特定の人間にしか注がれない。従って愛されない人間は徹底的に愛されない。だから愛されない人間は人間に対して憎悪を持つことになる。時には大量虐殺をしたりする。実に厄介な感情と言わねばなるまい。しかし、愛と違って慈しみは特定の対象にしか注がれるものではなく全ての生命体に注がれるのだから愛より上位の概念であろう。今の世の中は愛がないと言われているが、これはいい傾向である。愛がなくなると愛に飢える人間がいなくなる。愛があるから愛に飢える人間が出てくるのである。人類は愛を超えようと今は精神陣痛的に苦しんでる段階にあるのではなかろうか。私は愛は病的現象だと思う。私はこれからは全ての生きとし生けるものにいつしくみを注ぎ生きたいと思う。

仏陀は語る。

究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達してなすべきことは次の通りである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がるこのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、質素に暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、気負い立つこと少なく、諸々の人の家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えてるものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中位のものでも、短いものでも、微細または粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
何人も他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対して無量の慈しみのこころを起こすべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に下にまた横に、障礙なく怨恨なく敵意なき慈しみを行うべし。
立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいを確りともて。

私も仏陀に習ってこれからは慈しみに生きることにする。たとえ自分に救いがないとしても。