集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

幸福な人生。不幸な人生。

世の中に幸福な人間と不幸な人間がいる。どちらもなるべくしてなっているだろう。全ては産まれ育った環境と両親から受け継いだ遺伝子で決まってしまう。私みたいに遺伝的にも環境的にも最悪な環境で育ったものは不幸な人生を歩むことを余儀なくされる。人生プラスマイナスゼロで出来てると言うが嘘である。不幸な環境で育った者は不幸な人生を歩み、幸福な環境で育った者は幸福な人生を歩む。全ての場合がそうだというわけではないが、人生は不幸な環境で育った者にはなんとも厳しい。神を呪いたくなる。

日本で今、自分は幸福かとアンケートを取ったら半分以上の人間が自分は幸福だと答えたらしい。これは私にとっては以外だった。自分は幸福と感じる人間はもっと少ないと思っていた。6人に一人が貧困に陥っていると言われてる日本がこれだけ自分は幸福と感じて人間がいるのはどういう訳か。哲学者のサルトルが来日した際に、私は不思議に思うのだがと、前置きして、日本の貧困層を見て彼等は明るいと驚いており、これはヨーロッパではあり得ないと語っていた。日本人の貧しくても明るく振る舞えるその体質が関係してるだろうか。しかし、そうは言っても役半分は幸福と感じてないわけでこれはこれで大変な数字だろう。役5割の人間が自分は幸福ではないと感じているのである。六人に一人が貧困にあえいでいると言われてるから、自分は幸福ではないと感じる層は殆どが貧困層だろう。貯蓄ゼロ家庭もかなりいると言われており、これはかなりの数字だが、日本は病んでいると言われて久しいが、海外からは日本病と呼ばれているが、やはり最低でも7割ぐらいの人間が幸福と感じないと駄目であろうか。何が基準か知らんが日本は幸福指数はかなり低いらしい。高い税金を払う福祉社会の北欧が幸福指数が高いらしいが果たして高い税金を払う福祉社会が本当に理想的な社会かどうかは分からない。

日本は政府が腐敗しているであろう。アメリカのせいだ。属国下の政府は腐敗するのである。歴史を眺めてみれば例えば朝鮮なんか典型的にそうであろう。今の日本政府はアメリカ追従であり富裕層を優遇している政府である。日本は確実に階級社会化している。これでは社会は幸福にならないだろう。しかし、国民の3割が自民党を指示してるのだからこの国は終わっていると言える。民主党が与党の時に体たらくだった為に国民は野党に期待できず、選挙に無関心になったのである。だから投票に行かない。なので自民党はやりたい放題である。民主党(現立憲民主党)の罪は大きいだろう。

2ちゃんねるを覗く。自分は不幸だと感じている人間や死にたがっている人間が腐るほどいる。苦しんでるのは自分だけじゃないんだと安心する。現代日本の病魔が凝縮されているような掲示板である。私もよく死にたいと書き込む。本当に生きるのが辛いからだ。自分ほど不幸な人間はいないと書き込みがある。それで私はそいつに俺がいるとレスしたりする。確かに私は客観的に不幸であろう。10代の頃から葛藤に苦しんでいた。私はどうしたらこの葛藤から解放されるか悶々と悩み苦しみ足掻いていた。常に答えを求めていた。そこで現状を打開しようと思い書物を参考にしようと思った。まず、始めに手に取ったのは爆笑問題太田光の書物であった。太田光は人間の不完全さを肯定していた。人間は完璧じゃない。不完全でいいんだと語っていた。そんな人間を許してあげるのが必要だと説いていた。落語家の立川談志と同じである。立川談志は落語とは人間の業を肯定するものだという。人間なんかそんなものだと言う。所謂許しの思想だが、私は常々自分が駄目な人間だと思っていたので確かにその思想は気が楽になるものであった。落語家は最後は結局人間の業、欲深さを許してしまうと言うのだ。私はお笑い好きだが(今はあまりお笑い番組は観ないが)確かに私は昔はお笑い番組を観て笑っている時に自分の不甲斐なさを肯定されてるような気がしたのだ。

太田光は自身の書物の中で亀井勝一郎に影響を受けたと語っていた。なので私は亀井勝一郎に興味を持ち亀井勝一郎の書物を買って読むことにした。確か、「愛の無情について」だったと思う。亀井は自身の書物の中で「自分を理解してくれる人間はいるのかと周りを見渡して見る。そしてどこにもいないと自答するのです。既に絶望的なのです」と語っていた。この考えにはずいぶんと慰められた。

亀井は言う。汝は絶望したことがあるか。絶望したことがあるとしたらそれは如何なる絶望であるか、と。私は自分自身にも自分の人生にも絶望していた。10代の頃に自分の人生は終わった感が半端なく自分1人の力では問題は解決出来ないと思っていた。亀井は言う。直ぐに解決出来るような問題はそもそも問題ではないのだ。永遠の課題となり得る問題こそが真の問題である。その問題と対峙しそこから逃げないことだ。頭からぶつかり問題解決に全力を注ぐべきだと。私は確かに永遠の課題と思われる葛藤を抱えていた。自分はこの葛藤と永遠と付き合っていかなきゃならないと思っていたので気持ちは重たかった。しかし、亀井に出逢い人生に絶望しているのは自分だけではないんだと思い確かに慰められた。亀井は言う。絶望とは第2の自分を産み出す精神的陣痛であると。亀井のこの考えには私は納得した。絶望は苦しい。自分を何とかしたいと思う。しかし、自分の非力さを前にして絶望する。しかし、人間は諦めることも出来ない。亀井はそんな非力な自分を何とかしようと足掻き苦しみつつも、現状を打開しようとするのは人間の信念の力、祈りにも近い信念の力だと言うのだ。強い信念が第2の自己を産み出す大きな力になるのだ。

亀井は親鸞ただ一人に帰依する親鸞信者だったが親鸞の有名な言葉「私には他人を救う力はありません」という言葉はちょっと考えれば誰でもかなり奥の深い言葉だと分かるであろう。20世紀最高の哲学者と言われているハイデガー親鸞の思想に驚愕したらしい。苦しんでいるのは自分だけではない。みんなそれぞれ悩みや苦しみを抱えて生きているのだ。私は大変慰められたのである。しかし、葛藤解決には至らなかった。葛藤解決の為には別の何かが必要であった。そこで私は解剖学者の養老孟司の書物を読むことにした。養老孟司の書物からは確かに希望を感じるのであった。こんな私でも生きていけると思うのであった。私はかなり養老孟司に影響を受けており私は養老孟司は日本で一番に賢い人だと思っているが、特に身体を使えと言う教えには非常に説得力があった。私は何もしておらず、そんな生活が退屈でしょうがない為、そんな生活に耐えられず、何か身体と頭を使う創作活動をしたいと思っていた。労働は頭脳労働と肉体労働に分けられるが、実は労働の全ては肉体労働であるのだ。頭を使う仕事も確かにあるがそれを表現する為には、何か物を書いたり、或いは喋ったりしなきゃいけないので全て肉体労働であると言える。確かに養老孟司が言うとおり身体を動かすと考えが変わるのであった。そんな養老孟司が自身の書物の中で岸田秀の事を語っていた。興味をもった私は岸田秀の本を読むことにした。「ものぐさ精神分析である」衝撃的であった。亀井は人間との邂逅を重要視していたが岸田との邂逅は決定的であった。私の抱えている葛藤解決の手がかりがあった。岸田の専門は精神分析である。私の抱えている葛藤も精神分析的に解読可能じゃないかと思ったのである。岸田の理論は既存の理論を転覆させる理論である。その理論は切れ味抜群であり、次から次へと既存の理論を転覆させる、そのあり様は痛快そのものであった。私は岸田との邂逅により長年苦しんだ葛藤から徐々に解放されたのであった。私は養老孟司並に岸田秀に影響を受けている。岸田の書物は普通一般的によしとされてる、価値体系を破壊する書物である。伊丹十三が「ものぐさ精神分析」の後書きで語っていたが、我々は知らず知らずの内に与えられた常識という物差しを指針として生きているのである。しかし、その常識は主に生まれ育った環境によって左右されてしまう。その常識という被膜を通して世界を見ているのであり、その指針が正しいとする根拠はどこにもない。岸田の書物はその被された常識という膜を破壊する書物である。実に衝撃的であった。伊丹十三も岸田に衝撃を受け、被された膜が剥がれたと書いており、岸田理論に傾倒していた。私も同じである。物を見る目が明らかに変わった。(養老孟司の「無思想の発見」はさらに衝撃的であったが)

私は岸田と同様対人恐怖症の人間で、他人を失望させる、変に思われることが死ぬほど恐ろしく更に同じく電話恐怖症で、電話をかけるのも、電話がかかってくるのも怖いのである。そして、他人に嫌われるのが怖い癖に他人に好かれるとそいつの元から逃げたくなる典型的な病人であった。この性格傾向も岸田と全く同じであった(岸田の場合は恋愛に限った話だが)葛藤が解決されても(完全にではないが)この基本的な性格はどうも治らないようである。そんな自分を受け入れて生きていく他にないのだろう。

私は仏陀にも影響を受けている。仏陀の思想は確かに私に確信を与えた。仏陀の思想は相対的な思想だが岸田理論に似ていると思った。仏陀は言う「自分の理論を絶対化し、他人の理論を劣ったものと見なすならば、同じく自分自身も劣ったものとなる」と。私はある奴に洗脳され人生を破壊されたのだが、そいつは自分自身を絶対化していた。私の中で奴は絶対的な存在であった。何をするんでも奴の価値基準が内在化されているので、非常に邪魔なのであった。それは苦しいものであった。奴から解放されたかった。しかし仏陀の思想に出会い絶対化していた奴がただのホラ吹きではないかと思い、奴から解放されるきっかけになったのである。岸田は私の理論は新しさが特になく、仏教の言う色即是空と同じだと言っていた。独創性があるかどうかはどうでもよく、要は説得力があるかどうかが重要だと語っていた。

前にも確か書いたと思うが、私はみなが恋愛に友情に青春を謳歌してる時に、亀井勝一郎養老孟司岸田秀チャールズ・ブコウスキーパスカル仏陀の思想を読み気に入った箇所をノートに書き写すという作業を永遠と繰り返していた。何とも暗い青春時代であった。しかし、彼等の、思想、哲学は私の血肉になっている。暗い青春時代であったが無駄ではなかったであろう。

今にして振り返ってみると私に一番影響を与えたのはアメリカの作家、チャールズ・ブコウスキーではないかと思う。私は生きるのが辛いとき、もう耐えれそうにない時、チャールズ・ブコウスキーの言葉を思い出して自分を慰めていたのである。ブコウスキーには随分と助けられた。ブコウスキーさえあれば生きていけると思った。ブコウスキーには感謝している。私も早くブコウスキーのもとに行きたい。

集団ストーカー被害者も影響を受けた人間、心の拠り所にしている人間がいるだろう。何もない人間もいるかも知れないが、私は人間なんか大した生き物ではないと思っている。人間讃歌はどうも胡散臭い。しかし、そんなもんでいいのである。養老孟司の話によると人間は進化系の中途段階にあり人間を超える人間、超人が誕生したらその時人間の役割は終わりになると言う。その時が待ち遠しい。早くその時が来て欲しい。集団ストーカーの被害者である私は人間にはもううんざりだからだ。人間はもういいよ、と言う気持ちで一杯である。

書物は読むべきであろう。自分を変える手っ取り早い手段になってくれる。人生の奥深さを教えてくれる。集団ストーカー被害者で影響を受けた著作家がいたら是非とも教えて頂きたいものである。