集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

遠隔猿(笑)猿は遠隔(笑)

遠隔からチマチマ攻撃してねえで俺の所に来いよ猿。お前ら何するんでも遠隔からしか攻撃出来ねえじゃねえか。ヘタレが。卑怯なんだよ。俺に恨みがあるなら俺の所に直接来て復讐してみろや猿。電磁波兵器とか一般人を利用して集団ストーカーなんかしてんじゃねえよ。男なら(女かもしれないがw)男らしく直接俺の所に来て復讐してみろや!来いよ!いつでも相手にしてやるからよ猿。苦労知らずの坊っちゃんが、他人を苦しめて悦に入ってんじゃねえよ猿。お前らも俺達と同じ苦しみを味わえや!苦しみがどういうものか知れよ。何とも甘たっれたヘタレだ。こいつらには苦しみに耐える根性はあるまい。集団ストーカーの被害にあったら1日で音を上げるだろう。お前ら罪深き集団ストーカーは全ての集団ストーカー被害者に詫びて罪を償い自殺しないさい。分かったね。

ちまちま遠隔から攻撃してねえで俺の所に来いよカス

こいつら集団ストーカーは絶対にその所在をあかさずどこからも攻撃されない安全な場所から対象を苛める卑怯なゴミである。そんなことしてねえで俺の所に来いよ。俺のことが嫌いなんだろ?だったら俺の所に直接来て文句言ってみろよゴミクズ。来たら血まみれにしてやるからよ。絶対に来いよ。何人で来てもいいからよ(笑)集団ストーカーを思い付いたゴミも来いよ。ぶち殺してやるからよ。逃げんなよ。

相対主義は負ける。1神教と社会性についての簡潔な報告。

私は基本的に物事を相対的に観察するが、だからと言って相対主義者ではない。私はありとあらゆるものに依拠しないことを信条としてるので相対主義者にならない。(このように考えることが実に相対的である。何も依拠しないが何も依拠しないという考えには依拠してると言える)相対主義的考えの対局にあるのが絶対主義である。絶対主義は思考が絶対化された思考様式である。1神教が典型的にそうだろう。一元論と言っても良いだろう。絶対主義者は~が全てと考える傾向がある。ビートルズの愛こそ全てという曲もあるが、これも絶対主義的思考から産まれた曲であろう。イマジンと言う曲がありあまり好きではないのだが、歌詞がみんな自分(ジョン・レノン)のように考えれば世界は平和になるのにと言う曲である。メロディは良いのだろうが、歌詞が受け付けない。何でお前と同じ考えを持たなくちゃならないんだ。それって実に強制力がある思考だぜと、思う。イマジンの中でジョン・レノンは宗教は必要ないと歌ってるがこの曲自体が宗教ソングであろう。宗教を否定出来るのは宗教だけだからである。少なくともジョン・レノンは自分の「思想」が「正しい」と「信じていた」であろう。宗教を否定してるように見えてその実宗教を信じてるのである。これは現代の科学者にも同じことが言えるだろう。科学者は言う。現代科学の理論に照応しない理論は便所の水と一緒に流れていってもらうしかないと。これは実に1神教的思考である。キリスト教以外の宗教は便所の水と一緒に流れていってもらうしかないと、言ってるのと同じである。科学は宗教を否定するが自分達が科学を信仰してしまってることに気付いてない。宗教を否定する場合は他の宗教を持ってくる他にないのだから、科学でもって宗教を否定するのは科学信仰であろう。

他にアートこそ全てとか、ロックこそ全てとか考えるのも絶対主義的思考様式である。甲本ヒロトはロック以外のものがなくなっても構わないと語ってたがこれも典型的に思考が絶対化されており、甲本ヒロトにとってはロックは絶対的なものなのだろう。私は何に価値を感じるかは人それぞれだよと言うが思考が絶対化された人間には通じない。同じくメンバーの真島正利もロック以外は大したことないと歌ってたが、これも典型的に思考が絶対化された症状であろう。何が良いかはまさに人それぞれであり、ある対象がそいつにとっては絶対的に見えても客観性があるわけではなく、そいつにはそう見えているだけのことに過ぎない。客観性はない。しかし、思考が絶対化された人間にはそんな「当たり前」のことが通じない。実に厄介な連中である。何が一番かは人それぞれである。(前にも語ったがハイロウズを解散に追い込んだのは私である。精神的に追い詰められた、甲本ヒロトと真島正利は思考が絶対化されたのだろう。人間は追い詰められると思考が絶対化するのである。1神教も追い詰められた背景があり思考が絶対化され産まれたのだろう)しかし、相対主義的思考の持ち主は絶対的思考の持ち主には敵わない。これは歴史が証明するところである。一体どうすべきか。養老孟司は一元論はいつかは崩壊すると語ってた。しかし、ユダヤ教が誕生して3000年経つが未だに崩壊しない。アメリカではキリスト教が強く福音派が(聖書に書かれてる記述は全て正しいと考える一派)1神教強しである。ヨーロッパではキリスト教は滅びかかってるが、キリスト教的思考は今でも全然生きている。そして、世界の中心にいて世界を支配してる連中も残念ながら1神教的人間である。岸田秀は1神教が諸悪の根元で1神教が滅べばいいんですけどね(笑)と語ってたがこの思考が実に1神教的である(笑)本当どうしたら良いのだろうか。

今の日本も1神教化してると言えるだろう。明治になり、大正に日本は文明開化となるわけであるが、先進的キリスト教ヨーロッパ文明を受け入れて150年経つがその間に徐々に日本人の深層の中に1神教的思考が流入してきたのであろう。今の日本には思考が絶対化された人間が多いと感じる。先に説明した甲本ヒロトも真島正利も知らず知らずの内にロックが絶対化されて1神教的思考を持ってしまったと言えるだろう。今の日本には私は1神教的人間が多いと考える。手塚治虫は一番病患者で他の人気漫画家に対する嫉妬が凄まじかった。彼も一番病を発病したのは1神教の影響があったであろう。自分が一番じゃなければ我慢できず野球漫画家の水島新司にですらも嫉妬してたらしい。哀れな一番病患者であると言える。自分が一番じゃないと我慢出来ないとか傲慢さも甚だしい。アメリカも哀れな一番病患者であろう。何事においても自分達が一番でなければ許せず他人を見下して優越感に浸る。この症状は他人をムカつかせるが、アメリカが発病したのは、もちろん1神教の影響もあろうが、劣等感もあるだろう。岸田秀アメリカ人が一番人類を恨んでると分析してたが確かにアメリカ人の祖先はヨーロッパで差別されていたプロテスタントであり、人類に対する憎しみは強いだろう。彼らがアメリカ大陸に渡りインディアンを大虐殺して国を作ったのであった。アメリカはどう考えても普通の国ではない。人類に対する深い憎しみや恨みがあると同時にインディアンを大虐殺した負い目と罪悪感がごっちゃ混ぜになってると言える。差別感情も非常に強いし確実に劣等感が強いだろう。だから優越感に浸りたがり人を見下して自分達が一番になりたがるのである。(アメリカは劣等感とインディアンを大虐殺した負い目と罪悪感の狭間で苦しんでる。優越感に浸りたいが罪悪感もあるから、かつて自分達がしてきたことを正義の行いと正当化して、自分達のしてきたことは間違いなかったと証明したい衝動に駆られて脅迫的に戦争をして、正義を証明したいのである。実に厄介である。世界有数の軍事大国でもあるから。アメリカは理念だけで成り立ってる国であってその理念が嘘の正義の元に成り立ってるので、何としても自分達のしたことが正しかったと思い込みたいのである。その理念が崩れたら理念だけによって成り立ってるのだからアメリカは滅ぶのである)

養老孟司は日本が1神教化してると言っていた。NHKが公平、中立、客観を説いていたので、お前は神かと言っていた。確かに人間は客観的で公平で中立的にはなれないものである。神じゃあるまいし、そこまでは客観的にはなれない。客観的認識と思ってる認識も客観的認識と思ってるところの主観的認識に過ぎない。人間は遂には客観的認識には至れない。これは、それこそ、「絶対的」に至れない。てめえの脳で下界を観てるんだから当然であろう。脳と言うフィルターが有る限りにおいて客観的にはなれない。全ての価値観、価値体系、思想体系も相対的なものであり、絶対的なものではない。絶対的と感じるのはてめえの脳がそう感じてるだけのことに過ぎない。

誰も社会性から逃れることは出来ない。集団と個人は同じである。従って私のように相対主義的に考える人間もいるだろうが立場は狭いだろう。どうやったら絶対主義的思考を打ち破ることが出来るだろうか。難しい問題である。アートとかロックとかは絶対化されても実害は殆どないし、恋愛も思考が絶対化されたもの同士が愛しあうが実害はないと言えるだろう。だから、これらのものは思考が絶対化されても、まあ、仕方がないかですむが、しかし、自分の考えが「絶対に正しい」とは思ってもらいたくない。何を好きになるか、何に価値を感じるかは人それぞれである。てめえの脳ミソがそれを一番に感じてるからと言って他人に押し付けてもらっては困る。私は押し付けがましい人間が大嫌いである。そういう連中は実にはた迷惑な奴等である。かつてのキリスト教やマルクシズムなんかそうであった。こういう連中に人類は蹂躙されてきたのである。勝ち目はなかった。

こと思想的な問題になると話は厄介である。アートとか音楽とか恋愛においてその対象が絶対的に見えてしまうのは、まあ、しょうがないとしても、思想の問題になると問題は厄介である。その思想が絶対化されれば、1神教やナチズム等が生まれてしまうだろう。これが、いかに破壊的で壊滅的だったかは歴史が示す所である。あくまでも個人的な事柄に関しては思考が絶対化されると才能が花開く面もあるから何もかも否定する者ではない。恋愛もそうである。人間を磨き強くする効果が期待できる。しかし、思想は良くない。絶対化された思想は絶対化されてるが故に人殺しを正当化するのである。自分達は「完全な」正義の立場にいるのであって敵は残滅すべき「悪魔」であり、人殺しした時の罪悪が正当化され、いとも簡単に人を殺すようになるのである。アメリカなんか典型的にそうであろう。思想にはそういった力があるから厄介なのである。岸田秀はびくびく怯えて人を殺せない自我こそが理想的だと言ってたがそういう自我を持つものは確かに理想的かもしれないが、1神教の対抗馬にはなり得ない。それと岸田秀は正義には憎しみが隠ってると語っていた。これは全面的ではないにしても部分的には当たってると思う。正義を口実にして人殺しを正当化してる連中は人間を憎んでるとしか思えない。正義感が強い奴が一番厄介である。私を洗脳して自分の支配下に置こうとした鶴崎も正義感の強い男であった。こいつは自分が一番だと思っており、他人を見下し、優越感に浸りたがる厄介な奴で、押し付けがましく、自分は完全に正しいと思っており他人の避難に実に非寛容で付き合いづらかった。全く忌々しい奴であったが私は鶴崎の押しに負けてしょうもない観念を植え付けられて未だに苦しんでいる。正義感の強い人間には近づかないのが身の為である。

一体どうすべきか。頭を悩ませてしまう。養老孟司はそういった連中に対抗する為には究極の普遍性をもってくる他にないと言う。その究極の普遍性とは何か?それは「常識」だと言う。つまり「当たり前」のことだと言う。仏教ではこれが「正しい」とは言わないが、養老孟司に言わせると真に「正しい人間」は最後に勝つと言う。私は何が正しいのかよくは分からんが、しかし、絶対主義的思考は誤りだと分かる。これは確信的に分かる。しかし、私は相対主義的に考える為に絶対主義的思考の人間には勝てる気がしない。実に不利だと思うのだ。私は養老孟司岸田秀のように賢くもなく知識も不足してるから、今から面倒くさいが勉強して人間の普遍的事柄について考えていこうかと思っている。終わり。

早く人生をかえよせ

お前らの人生じゃねえんだよ。俺の人生何だよ。お前らの所有物物じゃねえんだよ。早く俺に人生を返せよカス。俺にはまだやりたいことが沢山あるんだよ。こんな糞みたいな人生を生きて1度しかない貴重な人生を無駄にするわけにはいかないんだよ。だから早く俺に人生を返せよ。散々酷いことをしてきたのだからお前らは自分の罪を償い自殺しろや馬鹿。

集団ストーカーを思い付いたゴミは全被害者に詫びて自殺しなさい。

自分がしてきたことを恥じて罪を償ったら自殺しなさい。分かったね。もうこいつじじいだろ。生きててもしょうがないんだから俺が殺してやるよ。

何故集団ストーカーは許されてるのか

集団ストーカーがまかり通る世の中なんて被害者なら誰だって間違ってると思うだろう。私も長いこと被害に遇い続けて人生を犠牲にし今は絶望的な人生を送ってるのでそう思う。しかし、集団ストーカーにはどうも被害者が死なない程度なら何をしても許される理由があるらしいのだ。その謎についていつも考えるのだがどうしても分からない。私は昔自転車をしょっちゅうパンクさせられていたので、今は自転車を部屋の中に置いてるのだが、よく自転車のサドルを低くされる嫌がらせにあう。外出先で自転車を置いて店の中にいる間にサドルを低くされるわけでなく、昨日までは自分に丁度いい高さだったのに、翌日何か目的があって外出し、帰って来て自転車に乗ったらサドルが低くなっているのである。これは集団ストーカーは不法侵入してるわけでただの犯罪行為だがこんなことをしても許されるらしいのだ。だから自転車を部屋の中に置いといても意味はないんだが今の所嫌がらせはサドルを低くされるだけでパンクとかの被害にはあってない。昔はタイヤに傷をつけられてそこからチューブがはみ出しそのチューブが擦れてパンクすることもあった。昔は金が本当になかったから自転車を買い換えるわけにもいかず仕方がなくタイヤの傷を塞いで自転車に乗っていた。

昔は今と違って被害が尋常じゃなく多く部屋の中にいると壁を叩かれたりしたし、外出するとしょっちゅう咳払いの嫌がらせにあった。私は最初は集団ストーカーはカルト集団だと思ってたが、集団ストーカーに実は普通の人間は知らない振りをしてるだけで集団ストーカーのことは知っていると気付かされてカルト犯罪ではないと分かった。そうすると集団ストーカーの目的が気になるわけで、集団ストーカーとは思考盗聴をして頭の中で考えたことを仄めかしたりしてくるわけで、たぶん集団ストーカーはこの思考盗聴がキーポイントだと思う。思考盗聴器を使えば人間、はたまた他の生物の謎も分かるようになるだろう。思考盗聴器を使えば人間の最大の謎の一つである、意識や死の謎が解けるかもしれないし、動物が何を考えて行動してるかも分かるだろう。つまり、生命の謎の解明に一役買うだろう。例えば今死につこうとしてる人間を思考盗聴すれば人間が死の間際に何を思うか分かるだろう。人によっては三途の川が見えたと言う人がいるが、これはただの脳内現象で文化的背景があると思われるが、その死の間際の脳内現象も分かるだろう。或いは死んだ場合に死の瞬間に脳内で何が起きてるかもわかり、かなり興味深い実験装置と言えるだろう。(従って集団ストーカーは一生終わらない可能性がはある)その他に、国どうしで違う概念的理解も深まるだろう。言語とは病的現象であり、言語は対象その物を完全に言い表すことは出来ない。しかし、人間は対象そのものを言語化して言語により理解してるわけで使う言語によって対象は違って見える。従って世界に客観性はない。カントじゃないが、目の前のコップを見てコップと言ってるわけではない。この国どうしで違う言語を話す我々地球人はそれぞれが概念的にちょっと違った世界の中で生きてるはずである。その概念的な違いを思考盗聴器を使って脳内を覗けば分かるかもしれない。例えばリンゴ1つとってもクオリア的に人それぞれ違ったリンゴ感があるわけで、その違いが分かるかも知れない。実に興味深いことである。更に思考盗聴器、或いは音声送信兵器は医療の分野でもその力を発揮するだろう。目の見えない人に下界の映像を送信出来るし、耳の聞こえない人と意思の疎通も可能だ。しかし、これには問題があって誰の脳の中に写る映像を送信するかだ。誰だって自分の脳の中を見られるのは嫌だろう。もちろんビデオカメラで撮った映像を送信出来るだろうから、それなら問題はないかも知れないが、映像を送信される側も映像を送信する機械と自分の脳が繋がれるのは不快かもしれない。私は集団ストーカーは人間、或いは他の生物の理解を深める為の実験だと思ってるがだとしたら何故我々被害者は毎日苛めにあうのだろうか。これが分からない。人間を絶望的な状態まで追い詰めないと分からないことでもあるのだろうか。集団ストーカーが許されるとしたら何か価値のあることに思考盗聴器を利用してるだろうから、やはり、人間、ひいては生物全般の謎を解明する実験以外に考えられない。だから、学習として普通の人々が思考盗聴してる可能性はあるのだ。私は集団ストーカーに実は普通の人々も集団ストーカーを知ってると気付かされたと書いたが、何故知ってるかと言うと普通の人間も思考盗聴してるからである。私は被害者予備軍以外は全ての人間が集団ストーカーを知ってると訴えているが、ある被害者のメール仲間はその説に反対していた。しかし、集団ストーカーが人間も含めて生命の謎をとく実験なら普通の人々が思考盗聴してる可能性はあるだろう。

集団ストーカーはその被害者に選ばれたら嫌でも人生を犠牲にしなきゃならないのだから、こうなったらどこまでも利用してやれと、考えてるだろうか。私は被害歴28年になるおっさんで恥ずかしながら恋愛経験がなく恋愛出来るのは年齢的にギリな年齢になったから早く終わってもらいたいが、私の知ってるメール仲間は50間近になっても集団ストーカーが終わらないし、別の知ってる被害者は被害歴40年で50歳を過ぎている。私が仮に50を過ぎても集団ストーカーが終わらなかったとしたら本当に人生に絶望する他になく、死ぬまで集団ストーカーを呪うが何だか最近はそうなる可能性が高いんじゃないかと思えてきた。私はいつも1人だから人生が退屈でつまらなく耐え難いので誰かパートナーが欲しいと考えてるが50を過ぎたらパートナーを見付けるのは困難であろう。若い頃から何も出来ずに生きてきたから悔恨の念が凄まじく何とかして人生を取り戻したいと考えてるがこのまま集団ストーカーは終わらず生きれなかった人生を取り戻すのは不可能なような気がしてきた。私の知ってる50代の被害者に集団ストーカーに人生を潰されて後悔はないかとメールで尋ねたら後悔するよりも前を向いて歩いた方が良いといった返事がかえってきたが、私はそこまでポジティブになれない。時間は有限であり、若さと言うのは余りにも貴重だ。その若さを私は失ったわけだが、若い頃に恋愛でも出来てればまた違った感慨があったであろうが、一度も恋愛経験はないので私は後悔しきりである。このまま集団ストーカーが終わらなかったとしたら恋愛することが絶望的になってしまう。だから早く終わって貰いたい。多分私は思うのだが恋愛をしたがる男は女と愛し愛される経験がしたいと言うよりも、恋愛経験を積み色々な女を知ることは男の沽券に関わるのだろう。だから女を知りたいと思うのだろう。要するに恋愛とは打算的産物であり、相思相愛とか幻想である。幻想と知ってても私は女を知りたい願望が物凄く強い。私も確実に男の沽券に関わるから恋愛をしたいのであって、愛し愛される関係を築きたいとか、女の子を喜ばせたいとか或いは愛のあるセックスをしてみたいとかの願望よりもやはり、全ては男の沽券に関わる打算的願望であろう。私の人生の1ページに恋愛と言う項目を書き込みたいだけであろう。そうして優越感に浸りたいのだろう。女に愛されると言う経験もしてみたいのも男の沽券に関わるからである。ただ単に優越感に浸りたがってるに過ぎない。恋の希望とか絶対にあり得ない。モテない人間はどうやってもモテず異性と恋愛をするのは不可能なのだ。私もそうなる可能性は高いが、所詮恋愛は打算的願望に過ぎず馬鹿な願望を持たずある程度欲望を相対化して生きる道も考えられるが今の私には難しい。私みたいな打算的人間に仮に女が出来ても付き合ってくれた女に対してかなり失礼な話で愚かと言えばかなり愚かであるが、恋愛をしたことのない劣等感が凄まじく早く恋愛をしてみたいと思う。私はあまり愛と言うのを信じてないのだが、だから、別に愛し愛される関係を築きたいとは思わないのだが、しかし、彼女は欲しい。これは自分のことしか考えておらず女の立場に立って考えていない為に、これでは彼女は出来ないだろう。(女が私を拒絶するのは私が彼女が欲しいのは彼女の立場に立って考えず自らの欲望を満たしたいだけなのが透けて見えるからだろう)しかし、全てにおいて自分の欲望が先行してしまう。仮に集団ストーカーの被害者に選ばれず自分の人生を生きれて、彼女を作れたとしたら後悔することもなくプライドを保ち生きれただろうが、本当に私は若い頃に何も出来なかったので、毎日昔を思い出して酷い後悔の念に襲われるのだ。

我々集団ストーカー被害者は被害者に選ばれたら人生を諦める他にないのかも知れない。そんな人生に一体何の意味があるのだろうか。時々人生の意味について考えるが、人生の意味が価値を持つのは他者との関係性の中にしかない。従って他者との関係を破壊された集団ストーカー被害者が人生に意味を見出だすのは難しい。人間はどんなに辛くても人生に意味を見出だせれば生きていけるかも知れないが、私は何も意味を見出だせず凄まじく虚しい毎日を生きている。仮に集団ストーカーが終わったとしても若い頃に何も出来なかったし、オッサンなのでしたかったことや、やりたかったことが大して出来ず、人生を取り戻すなど不可能に近いのだから人生が絶望的なのは変わりないだろう。集団ストーカーが終わって多少マシと言う程度である。こんな人生に何の意味があるのだろうか…。全くやってられない。何たる人生だ全く。誰もこんな人生は生きたくはないだろう。集団ストーカーの被害者に選ばれなかっただけでも感謝しろよと言いたくなる。私の見立てではまず間違いなく普通の人々も集団ストーカーのことは知ってるのだから、被害にあわず自分の人生を好きなように生きれる人間は感謝すべきであろう。(しかし、他人が集団ストーカーの被害者に選ばれないことに感謝して生きるのは我々被害者からしてみたら実に屈辱的である。同じ苦しみを味わえよと思う)私は集団ストーカーの被害者に選ばれただけでも最悪なのに、私の生育環境は最悪で、片親で貧乏で母親は頭がかなり悪く愛情もなかった。そんな母親とずっと二人きりで生きてきたのである。(途中から体調を崩した祖母も加わって三人暮らしになったが、私はそんな祖母とも上手い関係を築けず祖母のことが嫌いであった。祖母は私の母親のことを愛しておらず、母親は兄弟間で差別されて育ったので自分は捨て子だと思ったそうである。私の母親は三人兄弟だったが祖母は三男坊の息子と一緒に暮らしたかったようである。しかし、息子には家族がいたし、母親の姉も家族がいたので私の母親が面倒を見ることになったのである。祖母は私の母親の事を愛してなかったが、はからずもがな愛してなかった私の母親に面倒をみられることになったのである。因果は巡るのである。そして、私の母親は愛されず育った為に私の事を愛せないのである。親に愛されず育った人間は我が子を愛せないのである。仮に私に子供が出来たとしても私は我が子を愛す自信はない。しかし、母親の抑圧的態度が嫌いだったから子供の自由は尊重するとは思う)こんな悲惨な人生はあるだろうか。あるかも知れないが私も相当だろう。だから、人生に幸福感を感じて生きていける人間は感謝の気持ちを持ち謙虚に生きてもらいたいものである。終わり。

何の為に産まれてきたのか分からない

私の人生は一体何だったんだろうか。振り返ってみると楽しいことが何もない人生であった。集団ストーカーのせいだが、集団ストーカーさえなければもっと楽しい人生があったであろう。集団ストーカーの被害者に選ばれると本当に何も出来なくされるのだ。友達は失うは、恋人は出来ないはで最悪である。自分の人生を好きに生きることが出来ないから毎日酷い無意味感に襲われる。

集団ストーカーは我々被害者の人生を何だと思っているのだろうか。集団ストーカーのせいで人生の時間を犠牲にしなければならないじゃないか。人生は一度きりだ。だから誰もが後悔なく自分の人生をイキイキと生きたいのだ。集団ストーカーはそのことを理解しているのだろうか。人生は2度と生きることの出来ない時間の連続だ。だから一分一秒も無駄にせずに生きたいのだ。しかし、集団ストーカーの被害者に選ばれると自分の人生を生きることが出来ない。毎日無駄に時間だけが過ぎていく。虚しい毎日だ。

酷い鬱と倦怠感だ。何もするきが湧かない。身体を動かすのが異常にしんどい。毎朝目覚めた時に今日も何の意味のない生活を送るのだろうなと思うとうんざりしてくる。人間は人生に意味や価値を見出ださないと生きていけないように出来てるらしい。集団ストーカーの被害にあうと誰でも生きる意味を失い自身が依拠してる価値体系も崩壊するだろう。本当にそこまで追い込まれるのである。何故集団ストーカーは被害者をそこまで追い込むか謎だが、集団ストーカーの被害者に選ばれると大概の人間は1年も集団ストーカーの嫌がらせにあうと死にたくなる。どんなに辛い人生を生きようとも生きることに意味を見出だせると人間は生きていけるものだ。しかし、集団ストーカーの被害者は人生に意味を見出だせなくなるのだ。全てが無意味に感じる。

テレビもラジオも死ぬほどつまらないし、ゲームもつまらない。ただダラダラと無意味な時が過ぎていく。壮大な時間の無駄遣いだ。毎日が虚しい。こんな人生だから何の為に産まれてきたのかと煩悶する毎日である。圧倒的虚無感に襲われ何もやる気が湧かない。人生に希望を全く見出だせない。私の人生は一体何だったんだろうか。こんな人生が死ぬまで続くとか勘弁してもらいたい。

集団ストーカーが終わったら慰謝料が欲しい。こっちは30年近くも被害にあい、やりたいこと、好きなことが全く出来ず人生を犠牲にしたのだし、就職も出来ず貯金も殆どないし、これから就職するにしても就職出来る職場はたかが知れておりろくに貯金も出来ないだろう。従って集団ストーカー被害者は未来を思うと強い不安に襲われる。集団ストーカーの被害者である限りにおいてこの不安が消えることはないが、仮に集団ストーカーが終わっても不安が消えることないだろう。社会の一員になり上手く生きていけるだろうか。社会から遮断された生活を長いこと生きてきたのだからどうしても不安に襲われる。老後も実に心配である。麻生が老後は2000万必要だと語ってたがこれからそんな金を貯めるのは不可能だ。また、自民党の馬鹿が浮き世離れした馬鹿なことをほざいてると思ったが国民の立場に真に立って国民目線の政治をしてもらいたいものだ。期待するだけ無駄だが今の日本の酷すぎる惨状を思うと、集団ストーカーの被害者であることもあって暗澹とした気持ちになってくる。何故国民は自民党を支持するのだろうか。破滅願望のあるマゾ民族であろうか。思想家の山本七平が日本人が自民党を支持するのは、最低自民党はここまではやらない。その一線は守ってるからだと語ってたが、しかし、自民党は一線を超えた。今ではただの犯罪集団と化した。それなのに国民は自民党支持である。全く馬鹿な国民だと思うが、こんな日本だから集団ストーカー被害者として生きることを考えると強い不安に襲われる。だから、一生食うに困らないだけの慰謝料が欲しい。集団ストーカーは実験か何かは知らないが、被害者は人生の膨大な時間を犠牲にしたのだから当然であろう。早く終われ。