集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

ZEROの人。希望と養老孟司論。

遂に日本から凄い人間が出てきたという印象である。その著書「無思想の発見」は衝撃的な書物であった。思想の問題に切り込み有思想をバッサリ切って見せた。切れ味は抜群であった。養老孟司は理科系の人間である。従って自然科学を拠り所にして自身の理論を展開した。養老孟司によれば意識は病的であり信じるに値しないという。意識は秩序活動であり起きてる時に発生したエントロピーは寝てる間に処理されるという。更に意識は強い自己意識を持つと言う。例えば「俺は俺である」と考えるのも意識の仕業だという。仏教では無我を説くが、意識の考えることなんか信じるんじゃないと説く。意識には全てを解答に導く力なんかない。お前の正しいと考えてることも正解率は60%だよ。自分を絶対視するんじゃない。1神教徒と同じだよ。至極仏教的なことを語ってるが養老孟司は有名な著作「唯脳論」を書き終わった後にとある仏典を読んだら自身が伝えたいと思ってたことの要所がその仏典に書いてあり驚愕したという。養老孟司仏陀の手のひらの上に乗っかってしまったのである。その著作「無思想の発見」は養老孟司の集大成的書物で、養老孟司という人物を理解するのに最も参考になる書物であろう。

養老孟司は自然科学の人で、その自身の思想謂わば考えの背後に自然科学的真理が理論武装されている。全てにおいて理論武装されているのである。だからこんな人間はもはや気狂いであろう。こんな人間は見たことも聞いたこともない。養老孟司が語ること全てが理論武装されているのである。理論武装することが正しいと理論武装されており、また、人間の脳味噌は必ず対象に対する認識を間違うように出来てる為にその事も理論武装されており、自分の考えの間違いを指摘してもらうのは有難いことだという。こんな理論武装野郎は世界中探しても養老孟司だけであろう。他の人間は何かを信じて生きているわけであるが、養老孟司は確信領域にあるものだけを思考の立脚典に置いている。何も信じたくないし騙されたくないのであろう。こんな極端な人間は日本からしか出てこないであろう。日本の思想は無思想であり、だから、信仰は無信仰であるから養老孟司のような人間が出てきたのであろう。典型的日本人と言ってもいい。養老孟司の書物を読むとどう考えても最終的にはそこに落ち着くよなと言うことしか書かれてない。こんな人間は前代未聞である。その思考の根底には無思想の思想があるのであろう。まさに0の人である。ここまで奥深く考える人間は見たことない。どうしてここまで奥深く考えるのであろうか?あいつは間違ってる奴だと思われるのが耐えがたいのであろうか。逆に言うと間違った考えを持ってる人間を下に見る傾向があると言えるかもしれない。或いは「知らない」という事が耐えがたいのであろうか。ゲーテファウストと同じく世界を律してる法則を知りたいのであろう。宇宙は何故宇宙が発生したのか知らない。自然はなぜ自然がそういうシステムにより出来てるのか知らない。人間は何故人間が誕生したのか知らない。養老孟司は世界をそういう目で見ているのである。

「無思想の発見」は破壊力抜群の書物であった。文壇界、及び思想界、及び宗教界に与えた衝撃はでかかったであろう。自然科学的真理のみで書かれているからある種のナチズムがあると言えるだろう。非自然科学的なものは置き去りにされるからである。

大川隆法はギャグとしか思えない馬鹿なことを仕出かしたし、政界にも打って出てきたのだが、養老孟司の「無思想の発見」を読み自身の理論が完璧に論破されたので頭が狂ってしまいギャグとしか思えないイタコをやったり政界に打って出たのではなないか?それはどうだか知らないが、養老孟司は自然科学的真理を持ってきて1神教を否定してるのだがいかんせんそれは科学だから1神教徒は全く聞く耳を持たないはずである。信仰が邪魔して科学的真理は見る気がおきないはずである。やはり信仰を否定出来るのは信仰だけである。養老孟司は自然科学的真理で理論武装している為にそして反論の余地の無いものが正しいと考えてる為に(私と違った考えを持つものに出会うのは嬉しいと言うがもちろんそのことも理論武装している)それが盲点になってそのことに気付かないのである。1神教は手強いものである。私は1神教問題を解決するのは仏教と日本教精神分析以外にないと考えてるがそれでも難しいであろう。どうやったら信仰を捨てることが出来るであろうか。人間の脳は不完全な為に必ず間違うように出来てるのである。だから信仰が必要になるのである。何が正しくて間違っているか分からないから「信じる」ことが必要になるのである。だからとりあえずは何かを信じて生きていくほかにないんだが具合の悪いことにその信仰は度々狂熱性を帯びるのである。何故人間の脳はそのように出来ているのだろうか。人間の脳は必ず間違うように出来てるのに、間違っていることに耐えられないらしく、自分の考えが間違っている事には耐えがたいように出来ているらしい。そういう意味では1神教徒も養老孟司も同じである。ただ信仰の対象が違うに過ぎず脳の働き自体はおなじである。ただし、養老孟司の場合は結局どう考えてもそこに落ち着くよなという考えが根底にあるのである。

自然科学と宗教の問題は難しい問題である。宗教を否定出来るのは宗教だけである。宗教以外のもので宗教は否定出来ない。従ってこの世に宗教を持たない人間はいない。宗教そのものを否定すると言うことは宗教そのものを否定する宗教が必要になるからである。リチャード・ドーキンスなんか典型的だが自身が科学教の信者だと気付いていないだけである。またある科学者は、現代の科学的真理に照応しない理論は便所の水と一緒に流れて行ってもらうしかないと語るがこれは、「キリスト教以外の思想は便所の水と一緒に流れて行ってもらうしかない」と考えてるのと同じである。現代人は宗教から脱したように見えて実はズブズブの宗教漬けなのであり、科学を信仰していると気付いてないに過ぎない。昔アメリカでダーウィン主義者とキリスト教徒の論争があったがただの宗教的論争に過ぎなかった。ダーウィン主義者も科学を信仰しているからである。宗教の害毒に対する解毒剤的作用として科学があると思われてるがそれは違うのである。宗教に対して解毒剤を持ちうるのは宗教だけである。だから仏教とそして日本教が重要なのである。養老孟司は自然科学を拠り所にして日本教言語化したのであるがいかんせんその内部は自然科学で理論武装されている為に理屈は理解しても信仰は捨てる気にならないはずである。ここが自然科学の限界であった。従って自然科学には「原理的」に宗教を否定する力はないのである。信仰は絶対に捨てず科学的理論をそういうものだと理解するだけである。ここが自然科学の限界であり信仰の問題の難しさであろう。

さてそれならばどうすべきであろうか。まず人間には何か信じるものと宗教が必要だと分かった。そして宗教を論破してもあまり意味がないとわかった。宗教や思想を論破して優越感に浸ってる人間がいるがただの馬鹿である。2ちゃんねるの論争は虚しいだけである。だから何度も言うが仏教と日本教なのである。養老孟司が言うように日本教を世界に伝えるのは日本人に課せられた世界的指命であろう。仏教も同じく世界に伝えるのは仏教徒に課せられた世界的指命であろう。タイはどうであろうか?仏教国であるがその思想の根底は無思想であろうか。ブータンはどうであろうか?無思想であろうか。それは知らないがとにかく仏教を普及させるのは世界的指命である。日本は仏教国でありなおかつ多神教的でありかつ無信仰(の信仰)的国家である。やはり日本人に課せられた使命はどでかいであろう。ありとあらゆる、思想、哲学には限界があるの当然で、自然科学にも限界があることが分かった。従って、説得力があり、科学ではなく、信仰でありそして宗教でもって説得する以外にないのである。そしてそれが可能な恐らく唯一の民族がいる。日本人である。我々日本人に課せられた使命はどでかいのである。希望は日本にあると言ってもいい。

岸田秀が言うように1神教徒は間違いなく被害者意識と劣等感の塊であるはずである。1神教が発生した原因として砂漠から生まれた宗教であることも間違いなく関係してるが、それだけでは説明がつかないであろう。やはり岸田が言うように心理学的に分析する必要があるであろう。そうでも考えないと1神教徒の過激さの説明はつかないからである。アメリカは6割の人間が福音派(聖書に書かれてる記述が全て正しいと信じる派)で信じがたいが、だがアメリカ自体が宗教国家であろう。アメリカ人になると言うことはアメリカ教の信者になることを意味してるのである。アメリカはキリスト教アメリカ教が重なった至極厄介な国家である。岸田はアメリカを分析してアメリカ人が一番被害者意識と劣等感が強く人類を恨んでると分析しているが恐らく当たっているであろう。そうでも考えないとアメリカ人の過激さ、冷酷さ、そして誰よりも優越感に浸りたがる様は説明がつかないからである。アメリカが滅べば世界が平和になると語る人間もいるがそういう言い方は益々反発を強めるだろう。1神教同様なぜアメリカがああいう国家なのか心理学的な理由がありそこのとこを把握しておかないとどうにもならないだろう。そうこう、考えてみると、アメリカ教と1神教をどうにか出来るのはやはり日本人以外にあり得ないだろう。日本人はとんでもない使命を課せられたものである。しかし、日本人にしか解決出来ないのだから日本にこそ希望があるのである。

しかしその前に日本はアメリカからの独立を勝ち取るべきである。日本人はペリーの来航以来、常にアメリカに悩まされ続けてきた。 アメリカからの独立の道は日本独自の思想、哲学、信仰を生み出す以外にない。そうやって自分の足で立つことが出来た時に初めてアメリカに対して強く打って出て、独立の道も見えてくるはずである。養老孟司は日本人はヨーロッパ人のふりをしてればいいと言うが谷崎潤一郎を持ってくるまでもなく日本を西洋化したから日本は狂ったのであって、そこから、太宰や漱石や三島のような精神的に狂った作家が出てきたのである。そして谷崎的葛藤は現在進行形の問題である。養老孟司は自分はヨーロッパ人よりヨーロッパ人的だと語るが自然科学的真理だけを見てるから足元の問題である日本の狂気が見えないのである。日本にはヨーロッパ的なものはやはり合わない。やはり中国とインドを信仰してた時の方が幸福であったであろう。日本はヨーロッパ侵略の危機に際してあまりにも、矢継ぎ早に日本を西洋化したから狂ったのである。これは養老孟司に言わせると日本の良い面であり日本は無思想(の思想)国家だから、例えば中華思想という自前の思想を持つ中国と違って直ぐに西洋化を成し遂げ侵略の危機を免れたとのことだが、確かにそういう面もあるが日本は今まで1000年近くも慣れ親しんだ中国とインドの思想を捨てて取り付く暇もなく西洋化した為に狂ってしまったのである。無思想の思想の良い面と悪い面が同時に表れ出たと言えよう。岸田はヨーロッパ人は日本人が思ってるほど大したことはないと言うが日本人もいい加減にそのことに気付くべきであろう。養老孟司が語ってたがヨーロッパから偉大な思想家、哲学者が出て来るのはヨーロッパ社会がそれだけ狂ってる証左であるとのことだが、全くその通りである。日本は内部に何の信仰も持ってない為に外部に信仰の対象を求めるが、いい加減にそういうことはやめて独自の思想を作るべきであろう。どうせ日本の思想は無思想(の思想)なんだから具合が悪くなったら変えればよい。個人に例えると家(外部の思想)を離れて一人立ちすることである。もういい加減に日本は覚悟を決めて一人立ちすべきである。その時に初めて日本はアメリカからの独立が可能となりそして1神教徒を説得出来る力を持つであろう。

養老孟司岸田秀の思想は毒が強すぎる。なので1神教徒には受け入れ難いであろう。毒がなく説得力がありなおかつ信仰であるものが必要である。だから仏教と日本教が重要な意味を持ってくるのである。

養老孟司は思想は借り物で良いと言う考えである。それでいいのは、その根底に真に不動の思想、無思想の思想があるからと言うが、私はやはり日本が西洋化したことによる副作用はでかすぎたと思っている。他人の借り着を身に付けてるから外国に舐められいつまで経ってもアメリカの属国から脱却出来ないのである。個人に例えると日本はまだ一人立ち出来てないぼっちゃんであろう。マッカーサーが言った通り確かに日本人の精神年齢はまだ12歳なのである。根底に真に不動の思想、無思想の思想があるのだから自身の内側から真に自分達を支える思想を生み出しても何の問題もあるまい。具合が悪くなったら変えればよい。但し全て自分で考えることである。雑巾を絞り出すように自分で考えるのである。俺が(私が)やらないで誰がやるんだという気概を持つのである。そうでないと一人立ちは出来ない。他人の考え、謂わば思想を参考にしないで自分で考えることである。養老孟司も語ってたが人間は自分の足で立たないと駄目なのである。集団と個人を分けて考える必要はないのだから国家も一人立ちする為に日本独自の思想を持つべきである(どうせ仏教的な思想になるはずである)。それ以外にアメリカからの独立はあり得ないし、1神教徒を説得する力も持てないであろう。私はアメリカにはいい加減に嫌気が差してきたので早くアメリカから独立してもらいたいと思っている。阿倍には何も期待出来ない。日本人はアメリカから独立するのが怖いのであろう。孤立恐怖を持つのであろう。取り残され恐怖を持つのであろう。「バスに乗り遅れるな」もまさにその典型的症状である。内部に独自の思想がないから不安にかられるのである。だから日本は日本教言語化すべきである。日本教とは数字の0のことだよと伝えれば外国人にも通じるはずである。従って日本人はその時に初めて外国との間には繋がりを保証する立脚点を持つことが出来るはずである。日本が取り残され恐怖を持つのはどこの国とも通路づけを保証する立脚点をもってないからである。このままではまだ一人立ち出来ないぼっちゃんのままである。(一人立ちと言っても個人も集団も何かの支えなくして一人立ちはありえない)国家も自分の足で立つことが必要なのである。逆に言うと外国人が自己主張が強く自分を持っているように見えるのもその根底に有思想があるからに過ぎない。有思想を失えば全て崩壊する。でも日本の思想は無思想だから崩壊しようがない。だから言語化すべきである。あくまでも自分の頭で考えて言語化すべきである。私が言語化してもよいがその時は全ての責任は私が持とう。

養老孟司は人間は進化系の途上にあるという。つまり人間はもう一段上の存在へと進化するのである。人間のことが全て分かりそれ+αのある人間。つまり超人である。超人が誕生した時に人類の役割も終わりとなる。人類が発明した物全てが過去の異物と化す。私はその時が来るのが待ち遠しい。早く人類は進化して人類史にピリオドを打ってもらいたい。人間はもういいよ、という気持ちで一杯である。人生が辛すぎるからである。養老孟司は言う。人間はいずれ生きていかれなくてもいいように出来ていると。それまでの辛抱ではないか、と。非常に勇気づけられる言葉である。全ての人間は死なねばならぬ。人生とはそれまでの辛抱であるのである。

養老孟司岸田秀のごとき人間が出てきたのは日本が狂っていることの証左であろう。狂った日本の反動形成作用として養老孟司岸田秀が出てきたのである。その分析力は素晴らしく欧米人の著作家を凌駕してると言えるだろう。日本の根底にある思想は無思想の思想だから外部から入ってきたものを結晶化し外部にあったものよりも優れたものを生み出すのは日本人の得意技である。無思想の良点である。私は日本のそういう良い面を引き継ぎながら日本から独自の思想を生み出せないかと考えているのである。無思想の思想とはきちんと整頓されたカオスである。それを言語化出来たら無敵ではないか。もう外部の思想に頼る必要はない。(良い物は素直に認めて取り入れるべきであるが)その時に日本は自分の足で立ちアメリカからの独立の夢も叶うはずである。1神教問題の解決の道筋も見えてくるはずである。希望は日本にあるのである。

養老孟司によると人間は脳の中に住んでいるという。都市では脳が作ったものしか置いて置くことは許されず自然物は排除される。これを養老孟司は脳化社会と呼ぶ。ブレインワールドである。こんなことを考えたのは世界中で養老孟司ただ一人であろう。衝撃的な見解だが現代人はニートみたいなものかもしれない。都市に籠ってるからである。人類史は脳の侵略史と言えるかもしれない。自然を破壊して文明を築いて来たからである。人間は愚かな生き物で文明を発展させては滅びの道を歩んできた。現代文明も滅びの道を歩むだろうか。それは知らないが現代文明はろくなものではないだろう。欧米人にとって文明とは誇らしいもので発展すべきものであると考えられているが東洋ではそうは考えない。その逆で文明の発達とは病的現象であるのである。現代文明は完全に狂ってる。トイレに入れば自動でトイレのふたが上がり用を済ませれば自動で水が流れる。こんな生活に誰も疑問ももたず暮らしているのが不思議でならない。明らかに狂ってる。みんな文明の発達は素晴らしいものだと思っているのだろう。私にはブレインワールドは狂ってるとしか思えない。人間の脳はなぜわざわざ狂った世界を創出するのであろうか?何故そのように人間の脳は出来ているのだろうか?全く謎である。人間は進化系の途上にあるというから、進化して超人に為った時に初めてありとあらゆる問題も解決出来るのかもしれない。恐らく人間は楽な生活をしたがる生き物であるのであろう。そして発達した文明に誇りを感じているはずである。全くどうしようもないことである。文明を誇りに感じてる人間は謂わば未開民族のことを劣った連中と見下しているはずである。とんでもない!未開民族の方がまともな生活を歩んでいるのである。ブレインワールドとは病的な世界である。精神的に病んだ人間を多く生み出すはずである。人間が作ったものしか置いて置けない社会は狂ってるからである。どこぞの国の街がその美しさを認められ世界遺産に認定されたがそこの街にはものの見事に人間の構築物しかおいておらず、自然物が排除されてた。現代人はブレインワールドを高く評価するのである。更に具合が悪いことに現代は資本主義社会である。資本主義社会は病的な人間を多数生み出すであろう。ブレインワールドの中で資本主義社会を生きてるのだから完全に狂ってる。全ては脳の中でつまりブレインワールドの中で起きていることである。自ら文明を生み出し病んでしまうのだから病膏肓に入るとはまさにこのことであろう。自ら作り出した世界に生き、それを誇りにし、病んでるのだから人間は救いようがない。やはり超人の誕生を待つべきであろうか。養老孟司は世界と人間を分けて考えない。人間と世界を対応させて考える。つまりブレインワールドとは脳の生み出した世界のことである。田舎とは人間に例えると身体である。それで養老孟司は都市と田舎がブレンドされた世界が理想的だと説く。参勤交代を推し進め現代人は田舎風に暮らせと警鐘をならす。こんなこと考えたのは世界中でただ一人養老孟司だけであろう。日本教同様、養老孟司の思想も世界に伝えるべきであろう。岸田秀アメリカ論、1神教論も同じく。日本には凄い人間がいたものである。日本人に産まれたのはラッキーだったのかもしれない。養老孟司は自身の考えを世界に伝えたいという想いはないのだろうか。私が養老孟司なら世界に伝えたいと思うであろう。日本にはこんな凄い人間がいるのに日本人は外部のものを信仰し高く評価し過ぎである。もっと日本人の凄さに目を向けるべきであろう。実にもったいないことである。日本もそろそろ信仰の対象を外部に求めないで内部に持つべきであろう。別に私は右翼ではないしむしろ右翼には否定的だが(左翼にも否定的だが)私は日本教言語化すべきだと思っている。その時に初めて第2の日本の出発があると思っている。

養老孟司とは一体何者であろうか。ここまで理論武装した人間は後にも先にも養老孟司だけであろう。養老孟司は実は傷つきやすいのだろうか?自分自身を否定されるのが耐えがたいのであろうか?そんなことは知らないがとにかくこんな人間は2度と出てこないであろう。これから養老孟司のことを理論武装、論破親父と呼ぶことにしよう。終わり。