集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

集団ストーカーはやはり供儀である

私は集団ストーカーは供儀だと思っている。哲学者の内田樹の理論のパクりだが、今から6、7年前に内田樹のブログを読んだら、内田樹は虐め供儀説を唱えていたのだ。私はこれを内田樹から集団ストーカーは供儀であると仄めかされたのかなと思った。内田樹の虐め論を読んでみると集団ストーカーとリンクすることが沢山書いてあったからだ。なので、これは私に向けられた仄めかしだと思ったのである。供儀とは生け贄の儀式のことだが集団ストーカーは現代に甦った生け贄の儀式だと思ったのである。

集団ストーカーには誰もがその真相を知ったら納得出来る理由があると何度も書いてきた。従って陰謀論的解釈は、つまり、イルミナティユダヤ人、フリーメーソン、在日、創価が犯罪に荷担してるのは100%あり得ないのだが、(何故高学歴で私より遥かに知識がある人間が陰謀論と集団ストーカーを結びつけて考えてるのか謎だが)ある時内田樹から「私に確信を与えたのはフロイトマルクスです」と仄めかしがあった。フロイトとは精神分析の開祖であり、精神分析とは人間の無意識を相手にする学問である。従って私は内田樹は集団ストーカーの無意識的動機を分析して集団ストーカーは供儀であると分析したのではないかと考えたのである。

それで、集団ストーカーが現代に甦った生け贄の儀式であるならば、必然的に生け贄の儀式をしなきゃならない民族がいるはずである。それで、私は人類史上、一番悲惨な人生を歩んできた白人種(白人にしょっちゅう外出先で出会うのだが)の無意識的復讐ではないかと分析したのである。(明らかに岸田秀に影響受けてますね)その事をブログに書いたのは内田樹から仄めかしがあった6、7年後のことだが、ニュースサイトからよく打田樹から仄めかしがあったのだが、私が集団ストーカー供儀説を唱えてからニュースサイトを見てたら打田樹の記事が載っていて、内田樹の表情は自信に満ち溢れていた。「自分の説が正しかったと後から証明されたことがよくあった」と仄めかしがあり、更に「もう一つの真実がない」と仄めかしがあったのである。従って、「もう一つの真実がない」と言っていたから集団ストーカー供儀説は当たっていたのではないかと思ったのである。内田樹は笑顔でその表情は本当に自信に満ち溢れていたのである。

それとも、私は現代を超自我(自我より上位に立つ道徳的規範)の時代と分析して峻厳な超自我が人口調整の役割を担っていて人々から生命力を奪っていると分析し、主にその超自我から発せられる視点は松本人志の視点であり、養老孟司の視点であると分析した。そして、知的で賢く説得力があり、視点の影響力が殆どない内田樹の本が人気なのはその為だと分析した。この分析が当たっていたのだろうか。その後ニュースサイトから自信に満ち溢れた表情の打田樹親子の写真がアップされていたのであった。私の説が当たっていたのだろうか。少なくとも「遺書」以降松本人志の視点が超自我として内在化されたのは疑いの余地はないことである。その後、馬鹿の壁で一躍、時の人となった養老孟司の「無思想の発見」が松本人志を遥かに上まる視点を獲得することになったことは疑いの余地はなく、松本人志の視点も勿論残っていたが、養老孟司の視点が超自我の頂点に君臨することになったのは疑いの余地はないことだろう。(超自我論を否定するとそいつの理論が次の超自我になるのだから、超自我論は正しいと私は分析したのだから、私の視点が全超自我の頂点に立つだろう)現代を孔子症候群の時代と分析し、要するに後世恐るべしであると分析し、誰もが未来の、誰の視点が超自我になるのか恐れている為に批判される前に他人を批判する一億総批評家時代になったと分析したが、これが当たっていたのだろうか。少なくとも全て自然科学で理論武装している養老孟司の理論は孔子症候群を誘発しやすいであろう。

私の分析が当たっていたのか間違っていたのか、或いは部分的に当たっていて、部分的に間違っていたのか実際の所は分からないが、私は内田樹の自信に満ち溢れた表情が実に印象的だったのである。

集団ストーカーの真意はまだ分からないが、結局の所は自分の頭で考えて解明する以外にないのであろう。