私は何度かこのブログで訴えてきたように普通の人々も間違いなく集団ストーカーのことを知ってるのである。集団ストーカーは対象にアンカリングや仄めかしの嫌がらせをする場合、普通の人々にやらせるわけであるが、普通の人々は音声送信兵器で指示を受けて対象にアンカリングや仄めかしをしてると思われる。集団ストーカー加害者がやってるとも考えられるがどう考えてもたまたまそこにいたとしか思えない奴がアンカリングや仄めかしをしてくるのである。それに、集団ストーカーに参加してくる人間の数が尋常じゃないくらい多いことを考えると絶対に普通の人々も集団ストーカーのことは知ってるのである。普通の人々にどうやって集団ストーカーのことを伝えたのかは分からない。一軒一軒家を回って集団ストーカーのことを説明したのか、大きい会場に人を集めて説明したのかは分からない。大勢を集めて説明する場合に予め電話で伝えたであろうか。手紙ならば外に漏れる可能性がある。実際の所は分からないが、確実に普通の人々も集団ストーカーを知ってるのである。だから私は周知活動は意味がないと思っている。大勢の被害者がチラシを作成してチラシ配りや街宣等をやっているが私はこれらの活動は集団ストーカー終息の為には意味がないと思っている。
この集団ストーカーが厄介なのは集団ストーカーだけでなく普通の人々も思考盗聴してることである。集団ストーカーの嫌がらせをつぶさに観察してみると対象を付け回したり、対象の前に姿を表す場合、余りにもタイミングがばっちりなので、集団ストーカーをしてる側は三次元的に対象の位置情報を予め知っとく必要があり、そうでなければ集団ストーカーをするのは不可能である。集団ストーカー撲滅、周知チラシを見ると普通の人々が集団ストーカーに依頼されて対象が通り過ぎるまで、スマホを持って立っていて下さいとか、対象が通り過ぎる時に咳払いをしてくださいとか、ある特定のカラーの洋服を着て対象の前に表れて下さいと言われてると書かれてるが、集団ストーカーが対象の前に表れるタイミングが余りにもばっちりなので、集団ストーカーに参加させられる普通の人々は対象の脳の中を読み位置情報をしっかりと把握して対象に集団ストーカーをしてること以外に考えられない。それって普通の人々ではなくただの集団ストーカー加害者じゃないのと言われそうだが、参加する人間の数が尋常じゃないのである。従って集団ストーカー加害組織の人間だけがやってるとは考えにくい。試しに集団ストーカー被害者は普通の人々に頭の中から語りかけてみるとよい。何かしらの反応があるはずである。私は試しに普通の女性に頭の中から、「ブス」とか「結婚してくれ」とか「やらせろ」と語りかけると、泣かれたり、ドン引きされたりした。こういうことがあったので私は集団ストーカーだけでなく普通の人々にも思考盗聴されてると確信した。普通の語りかけでは全く反応してこない。私みたいに多少過激な語りかけがよい。女性を傷つけることになったが、どうも集団ストーカーは集団ストーカーだけでなく普通の人々も思考盗聴している事実を知られても問題ないと考えてるようである。
普通の人々に頭の中を覗かれられるとか地獄以外の何物でもない。まず、外出出来なくなる。人間はどうしても食わなくちゃ生きていけないのでスーパーに行かざるを得ないから私は我慢してスーパーに出掛ける。今まではそんな地獄の生活に耐えて生きてきたが私はもう限界である。精神的にもう疲れた。もう耐えれそうにない。集団ストーカーや普通の人々に思考盗聴されてるだけでも辛いのに、集団ストーカーの嫌がらせが実に陰惨で冷酷で残酷なのである。人類史は悲惨に満ちてるが我々集団ストーカー被害者はまず間違いなく歴史に残るくらい不幸な人生を生きてると言えるだろう。私はその時は来ないと思ってるが、全ての集団ストーカーが終息した時に我々は集団ストーカーの苦しみが如何に辛かったか語る機会を得るのではないかと思う。もちろん普通の人々は集団ストーカーのことを知っていて思考盗聴してるのだから、被害者の苦しみは知ってるだろうが、我々被害者はこの地獄の苦しみを人々に語らずにはいられない。やはり話さなければ分からないことがあると思う。今は私は生きるのが余りにも辛いので集団ストーカーに早く殺せよとお願いする。こんな辛い人生を生きるくらいなら死んだ方がましである。この世にこんな苦しみがあるのかと思う。耐え難い苦しみだ。恐らく人類史上最大の苦しみだろう。これ以上の苦しみは今までなかったし、これからもないだろう。つまり、究極の苦しみである。以前の記事で集団ストーカーはナチスより悪質であると書いたが、ドイツ人に塗炭の苦しみを味わわされたユダヤ人の苦しみを超える苦しみと言ってよかろう。全てを超越した苦しみだ。思考盗聴器を使えば人間の五感情報が思考盗聴してる側に直に伝わるから、みんな我々被害者の味わってる苦しみを知ってると言えるが、実際にされた人間にしかこの苦しみはやはり分からないだろう。何とも残酷な犯罪である。仮に同じ事をヒトラーやスターリンやポル・ポトや女子高生コンクリート殺人事件の主犯ににしたとしたら彼等に同情したくなるだろう。(私は女子高生コンクリート殺人事件の主犯は処刑すべきと思ってるので彼が我々と同じ被害にあったらザマアと思うだろうが)一部のキチガイを除いてみんな傷ついてると思いたいもんだ。こんなあり得ないレベルの苦しみを人間に与えるとか想像を絶する。とてもじゃないが考えられない。人類史上最大の惨劇だ。我々は間違いなく歴史に残る。今まで私はこの苦しみを処理する為に文学者の言葉に頼ってきた。一番のお気に入りはアメリカの作家、チャールズ・ブコウスキーだ。ブコウスキーには今まで何度も助けられてきた。時には励まされ、時には勇気づけられ生きることの手助けになってきた。しかし、もう限界だ。ブコウスキーの言葉ももう何の助けにもならない。ブコウスキーは私と同様地獄のような人生を生きてきたが、私の苦しみはブコウスキーの味わった苦しみを超えている。その苦しみは筆舌に尽くしがたい。人類が誕生してから今日までどれほどの人間が誕生したのかは知らんが地球上に誕生した人間達が味わってきた全ての苦しみを超えてるし、この先人類が滅ぶか別の種へと進化するまで私の味わってる苦しみを超える苦しみを味わう人間は存在しない。確信をもって言える。私の味わってる苦しみは究極的に普遍的な苦しみと言えるだろう。人類はもうこれ以上の苦しみを産み出すことはない。人類最後の苦しみと言ってもよかろう。従って人類は全ての苦しみを知ったとも言える。全ての苦しみを知ったのだから後は幸福な社会を作ることに邁進してもらいたいが人間のことだから何も期待出来ない。全ての苦しんで生きてる人間が私の苦しみを知れば自分の方がましだと思えるだろう。そういった意味で私は他人の支えになってると言える。
私は自殺した人間に想いを馳せる。彼等は私よりも苦しんでたであろうか。そんなことはない。確実に私の方が苦しんでる。キェルケゴールが言うように絶望とは死ねないことである。死という安らぎを与えられず生き続ける方が遥かに苦しいだろう。私が一番苦しんでるが世の絶望的状況にあって死ぬことが出来ずに苦しんでる人間は世界中にたくさんいるだろう。集団ストーカー被害者も地獄のような人生を生きてるだろう。私は昔、集団ストーカーの被害者でもないのに自殺してしまう人間が信じられなかった。自殺してまった連中よりも我々集団ストーカー被害者の方が遥かに苦しんでるだろうと思っていた。集団ストーカー被害者の中には自殺してしまった人間もいるようだが、我々はなんとか自殺せずに生きている。しかし、私はもう限界だ。今はしょっちゅう自殺が頭を過る。救いはどこにもない。このまま苦しみ続けるなら死んだ方がましだと思う。私は自殺するかもしれない。私が死んだところで誰も悲しまないだろう。両親はもういない。兄弟もいない。友達もいない。恋人もいない。悲しむ人間なんてどこにもいない。別に悲しんでほしいわけではない。死んだら無になるだけだから、悲しむ人間がいようがいなかろうが同じことである。人はよく自殺を考える人間に残された人間のことを考えろと言うが、私のように誰とも関わらず孤独に生きる人間がいるのだ。仮に残された人間がいるとしても、彼等は自殺する人間には何の支えにも救いにもならず、自殺するしか選択肢がないのである。
私の人生は一体何だったのだろうとしょっちゅう考える。私の人生には一体何の意味があったのだろう。私は親に愛されず育った人間である。従って私は幼少の頃より人の愛情に飢えて生きてきた。もちろん友達はいたし、親とのそれなりに楽しい思い出はある。父親と野球をやったりスキーに行ったりした。それは楽しい思い出である。やはり親との思い出は特別なものだ。岸田秀は家族愛も幻想だと言ってたが、それは、岸田が親に愛されず育ったからであって大概の人間にはやはり、親の存在は特別であろう。しかし、私は片親で母親1人に育てられて生きてきたのだが、母親は私と同じく親に愛されず育ったのだ。その為に母親は人の愛仕方を知らず私のことを愛せずに私は神経症になってしまったのである。母親も神経症だったと思われるが私はそんな母親の自我を受け継ぎそして愛されず育ったのである。兄弟もいなかったし、父親とは年に数回会う程度。こんな不幸な人生もない。私の母親は父親がたまにしか帰って来ないので父親を瘋癲の寅さんに準えて寅さんと読んでいた。何とも切なく悲しい話である。で、私は神経症でいつも孤独感があり、常に胸苦しい人生を生きてきたので、時には精神分析に頼ったが私の神経症は治らなかった。本当に苦しい人生であった。おっさんになった今でも恋愛経験すらない。まことに終わってる人生と言える。セックスの経験はあるが大して感動しなかった。初めて体験する時は感動するかと思ったがいざ体験してみると大して感動はなく、ああ、こんなもんかで終わりであった。愛する女とするセックスはまた違うのかも知れないが、私はプロを相手にセックスをしたのであって恐らく何千人も相手にしてきたプロだろうから愛なんかあるはずもなく、アソコもガバガバで大して気持ちの良いセックスではなかった。また、ソープに行こうかと考えてた時もあるが今の私にはそんな気力はない。それで、そんな、愛情に飢えていて神経症の私が集団ストーカーの被害者に選ばれたのだ。ある有名被害者の話によると不幸な人間が集団ストーカーの被害者に選ばれやすいとのことだが、私も例に漏れず不幸な人間であった。ただでさえ生きるのが辛いのに更に集団ストーカーの苦しみに耐えなければならなかった。その苦しみは筆舌に尽くしがたく生きるのは困難を極めた。時には希望にすがることもあったが、冷酷無比無情の集団ストーカーの嫌がらせに遂には希望は消えた。私は被害歴28年だが遂に心が折れてしまった。もう生きる気力はない。この先生きててもしょうがないと思う。だから近い内に死ぬかもしれない。私が死んだところで全人口の1人が死んだだけであり、誰も何とも思わないだろう。別にそれで構わないが、全ての集団ストーカー被害者に光が訪れることを願っている。ではさようなら。