集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

養老孟司の無思想の思想論と集団ストーカー

思想には二種類ある。無思想と有思想である。養老孟司は日本の思想は無思想の思想だと言い、有思想の問題点を説き無思想の重要さをとく。著書、「無思想の発見」はまず、自己はあるのかという疑問から始まる。日本語には一人称が複数あり、さらに自己と他者が往き来する構造があるという。「ぼく」が「ぼくちゃんは何をしたいの?」という具合に一人称があなたと同義の意味を持つと言う。更に日本語の自分をさす「私」には二重性があるという。「公私の別」としての「私」privateと個人selfとしての「私」である。このような言語構造を持つ民族は養老孟司に言わせると普通じゃないらしい。言語論になってしまうといささか本線から脱するから語らないが、しかし、言語の二重性は日本だけではない。中国語がそうである。中国語には表と裏が表裏一体になってる言葉が多数ある。例えば、大浜晧の「中国語的思惟の伝統」によれば、中国語には反訓があり、つまり、1つの文字の中に正反対の訓を含むことであって、例えば、「帰」という文字が「かえる」という意味と同時に「いく」といいう意味をあわせ持っているということである。大浜の書物からいくつかを取り出すと、例えば「離」には、はなれるとともに、くっつくの意味があり、「乞」には、人に何かを求めるとともに、与えるの意味があり、「祥」にはさいわいと同時に、わざわいの意味がある。また、「関」には閉と通、「面」には向と背、「借」には借と貸という相反する意味が込められており、さらに「終」は、おわりとともに、はじまりの意味を持ち、「逆」も、さからうとともに、むかえるという内容をあわせ持ってるという。このように言語の二重性は何も日本語に限ったことではない。中国語は同じ文字の中に二重性があり、ある訓が正反対の訓の間を行き来する構造をもつ。日本語の性質同様これを英語で説明するのは難儀なことであろう。終わりには始まりの意味があるんだ、と言ってもなんのことかちんぷんかんぷんであろう。英語圏の世界ではAはAでありBになることはない。しかし二元構造をもつ中国の世界では、AがBにもCにもなるのである。我々日本人にはそれで「当たり前」だが英語圏の人間にはとんでもない話なのであろう。「俺は俺」なのである。そんなことはない。俺はあれにもそれにもなるのが我々日本人には馴染みのある至極全うな考え、謂わば「思想」である。最も最近では、殆ど多くの日本人が「俺は俺」と思っているであろう。ヨーロッパ的思考が流入した今の日本ではそれで「当たり前」と思っている人間が殆どであろう。そもそも日本語の「分かった」という言葉は物事を2つに分かつことなのである。日本では中国から伝わった漢字が公用語になったから言語の二重性は日本人にとっては珍しいことではない。最も養老孟司は「私の」問題に言及したのであって、いささか話が脱線したが養老孟司によると日本における「私」表現は西洋近代自我の侵入から生じた新しい表現ではないかという。

養老孟司は「私」には二重性があり、公の最小単位は実は「個人」ではなく「家」だという。日本の世間は「家という公的な私的単位」が集まって構成されてたという。養老孟司は日本の場合、どんなぼろっちい家にも塀があり、子供でもよじ登れる程度の塀をなぜわざわざ建てるのか疑問に思ったという。その疑問の答えとして、これは公の最小単位は家であり、内と外を分け隔ているものの象徴的現象だと気付いたのだという。そして西洋近代自我の侵入から「私」には公としての私と個人としての「私」という二重構造を持つに至ったのである。自己の話はまだ続く。日本語の一人称には複数の呼びかたがあり、「私」、「僕」、「俺」等、固定的概念としての自分は存在しない。さらに最初のほうで説明した通り、自己が自分と相手の間を往き来する。これは何を言いたいのかと言うと、養老孟司は日本には固定的な自己が存在しないうことと、日本に思想がないこととは、根は同じところから出ている同一の現象だと言いたいのであろう。養老孟司が言うには日本には思想がなく日本の思想は無思想の思想だという。そのことを順々と説きながら有思想の問題点に迫る。

有思想は大量虐殺は当たり前、ナチズムや優性学等の危険思想を産み出しこれまで幾多の不幸を人類にもたらしてきた。ヨーロッパのキリスト教徒が世界の約8割を植民地化し多くの人間を虐殺してきた。(養老孟司は自分には幾ばくかのナチズムがあると語っているが)そのような、有思想の手前勝手を許してならないならば、無思想の思想の重要さを説くしかないという。完璧な思想はない。どんな思想も不完全である。自身が完璧と思える思想を説いてもゲーデル不完全性定理が出てきてしまう。そこで、養老孟司は日本の思想、無思想の思想を世界に伝えるのは日本人に課せられた世界的使命だという。

無思想の思想は数字の0と同じだという。0は何もないという意味と同時に数字の0という意味をもつ。無思想の思想もそれと同じだと説く。そして無思想の思想がそれを説明するのは難解だとしても数字の0のことだよと説明すると案外意味が通るのではないかと言う。それはそうだが、私が思うに自前の思想を持ってる人間に無思想の思想を説いても自分の思想を捨てる気にはならないであろう。思想とプライドは不可分の関係にあり、自身の思想を捨て去るのは用意ではないであろう。無思想の思想が全思想の頂点に立つのであればとくに1神教徒には受け入れ難いであろう。日本にも日本会議なる怪しげな団体があり、詳しくは知らないがこいつらも恐らくは有思想の者が寄せ集まって出来た団体であろう。特にイスラム教では全ては神の思しめしであり、イスラム教を捨て去るのは容易なこっちゃないであろう。私は特にある特定の、思想、哲学、宗教には依拠してないが(無思想の思想家だが)、有思想の人間にはプライドが邪魔して思想を捨てるのは容易なこっちゃないであろう。宗教でもいいがある思想を説きその思想がそいつの持ってる思想よりも一段上位に立つとプライドが許さないのである。これは非常に難しい問題である。しかも無思想の思想が完璧な思想かというとそんなこともなく、問題点もある。無思想であるということはブレーキがないということであり、行くとこまで行ってしまうのである。典型的なのが神風特攻隊でありポルポトの大虐殺である。有思想と無思想の利点と欠点を把握するのが思想の問題点を理解するのに役立つ。日本人は日本の思想が無思想であり、そのことを認識する必要がある。最近私が見たところ日本人も有思想家が増えていると危惧している。欧米とやり合う為には思想、哲学が必要だと考えるのであろう。欧米の思想、哲学は難解で意味不明だがしかし、共に抽象概念ということでは同じであろう。ヨーロッパの思想、哲学は子供の秘密基地遊びに似ている。現実と関係のない所に別の世界観を築きそれを現実化しようとする。しかし、ヨーロッパの思想、哲学が世界を良くしたことは恐らくない。(あんな小難しい事を考えても世界が良くなるわけがないという当たり前のことがわからないのだろうか。よっぽど哲学が好きなのだろう。私はヨーロッパの哲学はただの知的遊戯としか思えない。子供の遊び、好奇心と変わらない。その対象が哲学になっただけのことである。)子供の秘密基地遊びも現実とは関係のないところに子供達だけの秘密の世界をつくりその中で遊ぶ。ヨーロッパの思想、哲学もおなじで、現実とは関係のないところからある種の世界観を築きあげその世界観に基づいて世界変革を試みる。

思想とプライドは不可分の関係にあると言ったが全人類の三分の二が1神教徒だというのはよくよく注意すべき点であろう。ある思想を持ってる人間を説得する場合には思想的に対処する他ない。思想を否定出来るのは思想だけだからである。以下、哲学、宗教に同じ。哲学を否定する場合にはある特定の哲学を持ってくる他になく、宗教を否定する場合も同様、別の宗教を持ってくる他にない。日本人が思想、哲学、宗教そのものを否定するということは、思想、哲学、宗教、そのものを否定する、思想、哲学、宗教を持ってくる他にない。つまり無思想の思想であり、無哲学の哲学であり、無宗教の宗教である。従ってこの世に思想、哲学、宗教を持たない人間は一人も存在しない。全ての人間が有思想家か無思想家のどちらかである。科学者のリチャード・ドーキンスなんかは典型的な科学教の信者と言えよう。こうなってみるともう問題ははっきりする。この世には有思想家と無思想家しか存在しない。そして我々人類は有思想の問題点を知りすぎるほど知っている。無思想の思想の利点と欠点を説き全人類に無思想の思想の重要さを説く以外にない。しかし、これは大問題である。思想を持たない人間はいないと説明した。そして、思想とプライドは不可分の関係にあると説明した。全人類の三分の二が1神教徒だということは1神教徒としてのプライドを持つ人間が大勢いることである。ある思想を説くときその思想が、そのある対象の思想よりも一段上位に立ってしまうとプライドが許さないのである。世界平和の理念でもいいが、現状、問題を抱えてるのが思想である以上はかならず、優劣関係が出来上がってしまう。これは非常に難しい問題である。ゲーデル不完全性定理を持ってきても説得は難しいであろう。養老孟司は説得力がありするぎると「ヒトラーになる」と言うが、こと1神教徒を説得することに関して私は絶望的である。多文化共生主義もあるが、これだって1つの思想であり哲学である。そして1神教よりも立場的に上位に立ってしまう。1神教徒には多文化共生主義は受け入れ難いであろう。思想にはこのように必ず優劣が発生してしまう構造的な問題があるのである。これこそ思想の大問題である。この問題に関しては解決するのは日本人以外にあるまい。思想の大問題を解決するのは日本人に課せられた世界的使命であろう。しかし、この問題は容易なこっちゃないであろう。

起源論まで遡って考えるべきであろうか。つまり、人間はなぜ、思想、哲学、宗教を必要とするのかという根元的な問題である。私が思うに人間が生きていく為には行動指針、思考の指針となるものが必要だからではないだろうか。何か基準が必要なはずである。そしてその行動指針はプライドと密接な関係にある。ある特定の思想、哲学、宗教を持っている人間はそれがプライドの根拠になっているはずである。信仰の根拠と言ってもいい。信仰とはある特定の対象を信じることである。確信ではない。確信は信仰の上位互換である。人間は信じるものがないと生きていけないはずである。日本人だって信じるものをもってるはずである。信仰はそれが正しいか、間違っているかわからないから信仰するのである。当然そこにはリスペクトの感情があり、その信仰の対象はプライドの根拠である。いや、プライドそのものと言ってもいい。キリスト教徒はイエス様の教えを正しいと「信じて」いるであろう。イエス様の教えが正しいと確信してますと言う言い方はしないであろう。そこはあくまでも「信仰」の領域である必要があるのである。確信ではない。世の中の殆ど全ての科学者が科学は正しいと「信じている」であろう。科学が世界のそして人間の「真理」を理解するのに有用だと確信している人間は殆どいないであろう。やはりそこはあくまでも「信仰」なのである。思考の立脚点になっているものが全て確信領域ならつまらぬであろう。信仰してないとつまらぬであろう。人間には信仰が必要でありそれは心の支えであり、思考の立脚点であり、それがないと生きていけない、人間はそういうふうに出来てるのである。そしてその信仰の対象は思考の立脚点になっているはずである。物を見る、聞く、考える、行動に移すという時には秩序活動としての思考の立脚点が必要なはずである。そうでないと全てが支離滅裂になって何も出来なくなってしまう。そして人間はその思考の立脚点にプライドの根拠を置いているはずである。たまに自身が依拠してる宗教が正しいと確信してる人間がいるがそれは超少数派である。思考の立脚点、プライドの根拠となってるモノは全てが信仰の領域である。まさにこれこそが人間の不可解さである。信仰の領域は全てがあやふやで確信の領域にあるものではない。抽象的である必要があるのである。抽象的であるからこそ信仰し、信仰するからこそ抽象的である。それを思考の立脚点におかないと人間は生きていくことが出来ないようになっているのである。当然の如くそれはプライドの根拠になるであろう。プロとしてのプライドとか人としてプライドが許さないとか男の沽券に関わるとか、プライドにも色々あるから一概に思想や信仰だけに関わることではないが、しかし自分のプライドの根拠になってるものを攻撃されたら許しがたい感情を持つであろう。自身が依拠している思想には誰もがプライドを持っているはずである。従ってある特定の思想を信じて生きている者を説得するのは容易なこっちゃないであろう。人間は何か前提となるものがなければモノを考えたり行動に移すことは出来ないはずである。そしてその行動指針とプライドは不可分に結びついているのである。指針とは思考の基準であり、行動の基準であり、信仰の対象である。誰だって信仰の基準にはプライドを持っているであろう。日本の思想は無思想なので従って日本人は謙虚なのである。無思想には中身がないからプライドは持ちようがないであろう。思考の立脚点として、思想、哲学、宗教は必要なのである。そしてそれは当然の如くプライドの根拠になっている。

日本人の信仰の対象は外部にある。かつては中国とインドの思想であり近代は西洋文明である。日本人は外部にプライドの根拠を持っている珍しい民族である。内田樹が語っていたように日本人は日本語をかな文字と言って日本語は仮りの名、仮名文字なのである。つまり本当の言葉は中国から伝わってきた漢字なのである。こんなことを考えてしまう民族は日本人以外にいないであろう。謙虚さの表れと言ってもいいのかも知れない。或いは日本人は外部のものを盲目的に評価が高くなりすぎである。自虐的でもある。日本の左翼に典型的だが信仰の対象は外部にあり、岸田秀が語っている通り日本人は外国を崇拝する外的自己と日本を崇拝する内的自己に分裂しているのである。そして内的自己、日本崇拝主義者には左翼の存在が目障りであろう。同じ日本人なのに外国を崇拝しているのが口惜しいであろう。日本には自前の思想がないからその点に関しては引け目があるのかもしれないが、そのかわり日本には形がある。形こそが日本人の行動指針である。そしてそこにプライドの根拠を置いていたのである。道の精神がそれである。

例えば神の問題について考えてみよう。神の存在証明があるが神については閉口する他にない。論理的に神の存在証明をした人間もいたが、どうやってもその存在は証明できないのである。たまに神を見たと言う人間がいるがそいつが見たのが本当に神かどうか証明しようがないからである。神がいるのかどうか誰にも分かりようがないのである。だから神はまさに信仰の対象になる他ないのである。1神教徒には神は抽象的でなければならないのである。抽象的であればあるほど信仰は強くなる。太陽神等の自然物としての神は現実に存在している物を信仰するので抽象性は薄い。しかし1神教の神は抽象的な神である。信仰を強め横の絆を強める為には抽象的な神である必要があったのであろう。抽象神ほど人間を高陽させる存在はなく抽象神ほど信仰を強めるものはない。抽象神であるがゆえにその能力は無限大である。だから全知全能の神なのである。神を馬鹿にする人間に出会したら神を信じる人間はプライドが傷つくであろう。信仰とプライドが不可分の関係にあるのは疑いの余地のないところである。というよりも、プライドの根拠=信仰の対象と言っても言いくらいである。思想の問題はプライドの問題と言ってもいい。有思想を小馬鹿にしても何も始まらない。思想の問題は事ほど左様に難しい。一体どうすべきであろうか、、私にはわからない。全ての人間に通じる普遍的な何かを見付けるべきであろうか。少なくとも全ての人間に信仰が必要だとわかった。それならば間ともな信仰とは何か。無信仰の信仰以外にあるまい。世界も人間も不可解で何が正しくて間違っているのかはっきりとわからないことだらけである。未来はいつだって未知数である。だから何かを信じて生きていくほかにないのである。人間はそういうふうに出来てるのである。全ての思想家、哲学者、宗教家が自分の依拠してる思想を信じているであろう。そのことを誇りにしているであろう。そして確信の領域には至らないはずである。もし仮に自分の考えを確信してるのであればそれは思想家でもなく哲学者でもなくましてや宗教家ではないであろう。別の何かである。私は常々ヨーロッパの思想、哲学が超難解なのが不思議だったが超抽象的である唯一絶対神の住まう世界にいる人間であればこそ世界が抽象的なモノへと変質しその影響下から同じく抽象的な思想、哲学が出てきたのではあるまいか。そこに神が死に、その死んだ神が理性へと変容し、それら複合的な要因が重なって超抽象的で知的レベルが高く見える思想、哲学が出てきたのであろうか。思想、哲学は子供の秘密基地遊びに似ていると説明したが信仰も同じである。ある特定の思想を立脚点に置きそれを中心として横の繋がりを深め、ある特定の世界観を現実と思い込みそれを信仰する。オウムも幸福の科学も同じである。そのある特定の世界観を持ちその中に住まうのは至極幸福であろう。ある脳科学者が人間においては家族の存在が最も精神的安定を与えると語っていたが宗教も同じであろう。ある特定の思想を中心に置きそれを信仰する擬似家族である。そこには何者にも変えがたい至福感があるであろう。そこで無思想の思想を説き理解させるのは難儀なことであろう。殆ど絶望的である。宗教には宗教でもってして対処する他ない。多くの人間が宗教と敵対関係にあるのは科学だと考えているようだが科学ではない。無宗教の宗教でもって対応する他にないのである。リチャード・ドーキンスは人間には信仰は必要ないと説いているが彼は自分の考え、つまり思想を信じているであろう。信仰に対応するのは信仰だけだからである。それともドーキンスは自分の考えが正しいと確信しているであろうか?彼は自分の考えが正しいですと確信をもって語れるであろうか。もしそうだとしたら人間には信仰は必要ないとは説かないであろう。彼は信仰を攻撃したのだから彼なりの信仰を持っているはずである。

無思想の思想を説くのは難しい問題である。ゲーデルをもってきても説得力があるどごろかますます信仰を強める結果になるであろう。私にはどうしたらいいのかわからないが、思想、哲学、宗教、信仰、プライドが密接に結びつき根は同じところから出ている現象だとははっきりした。この世は分からないことだらけだから人間は信じるということが必要になるわけであるが、それは科学的に言うと一種の秩序活動であろう。信じるという意識の働きがなければ全てが支離滅裂になるはずである。超人とはその信じるという意識の働きを超え出たところから生まれるのかもしれない。

ところで集団ストーカーであるが集団ストーカーは思想の領域に入るであろうか?入るであろう。無思想の人間がこんな気色の悪いこと思い付くはずがないではないか。集団ストーカーは正しいと信じているはずである。集団ストーカーを生み出すのにその立脚点としてある特定の思想、哲学があったはずである。ガスライティングを参考にしてるがガスライティングは典型的な人を不幸に貶める実践哲学ではないか。アメリカは典型的な有思想国家だからガスライティングなる嫌がらせを思い付くのである。集団ストーカーにはもう1つ「別の真実」があるようだが、恐らくそれは哲学的な何かであろう。普通の人達はどうであろうか。集団ストーカーは実は全ての人間が知っていると何度も説明したが、虐め好きな嗜虐性のある糞馬鹿はともかく(そういう人間が最近では多いと考えているが)赤の他人とは言え他人が虐めにあっているのは耐え難いであろう。だから集団ストーカーは正しいことだと信じていなければやってられないであろう。集団ストーカーは正しいと確信していますとは言えないであろう。松本人志が「誰かの犠牲が必要なこともあるんや」と語っていたからやはりその根底には思想的な何かがあるのであろう。集団ストーカーの存在それ自体が有思想がいかに糞迷惑か証明しているのではないか。それとも我々被害者は毎日壮絶な目に遭いガチで自殺を考えるところまで追い詰められるが、そこまでしてある特定の対象を追い詰めるのだから、自分の考え謂わば思想は正しいと確信しているであろうか。それはわからないが私には集団ストーカーと一般人がある特定の考え「思想」を立脚点として同じ思いを共有しているとしか思えないのである。

今の私に出来ることは何であろうか。集団ストーカーがいつか終わると「信じる」ことである。終わるか終わらないかわからないからである。これこそが今の私が「信じてる」ことなのである。確信ではない。確信は持てないのである。集団ストーカーがいつか終わるか分からないからである。

私は難しい問題に直面してしまった。思想の問題と集団ストーカーの問題である。どうしたらいいものか。全く分からず頭が痛くなる。思想問題の解決も集団ストーカーの終演もいつか解決できて何れ終わると「信じる」他にない問題なのであろう。