集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

希望。有思想と仏教と日本教。

以前に養老孟司の無思想の思想論を書いた。あの時書いたブログでは有思想の問題点と何故人間に思想は必要なのか考察した。意識は秩序活動であり何か秩序活動を保障する立脚点が必要だと書いた。そしてそれは必ず信仰になると書いた。意識は無秩序的活動は不可能な為に必ず人間は信仰を持つ。そしてそれは宗教になるのである。つまり思想と宗教は密接な関係があるのである。キリスト教の聖書も仏教の仏典も思想である。そして自分の信じてる思想が正しいかどうか確信がないから信じるのである。自分の思考の立脚点は正しいと確信している人間もいるが思考の立脚点があること、そしてそれが秩序活動を保障し心の拠り所になってることでは同じである。つまり人間は何か心の拠り所が必要なのである。心の拠り所を持たない人間はこの世に一人も存在しない。心の拠り所とは立脚点であり意識活動の秩序を保障するものなのである。だからどんな人間も心の拠り所を持つのである。そして自身の拠り所に誇りを感じているのである。人間は誇りがなければ生きていけないように出来ているのである。ここが思想の問題を考える上で難しい点だと説明した。養老孟司は有思想がいかに傍迷惑か自身の著作で説いているわけであるが、有思想がいかに問題があると何か思想を持ってる者に説いても中々説得力は持ち得ないであろう。ゲーデル不完全性定理を持ち出しこの世に完全な思想はないんだと説いても思想を捨てるのは容易なこっちゃないだろう。思想とは立脚点であり心の拠り所であり誇りなのである。従って自分の拠り所を捨て去るのはプライドが傷つくし強い恐怖心を呼び起こすはずである。

以前に書いた養老孟司の無思想の思想論では思想を否定出来るのは思想だけと説いた。思想以外のモノで思想は否定出来ない。従って思想の問題には思想的に対処するほかにない。宗教にしても哲学にしても信仰にしても同じである。科学者のリチャード・ドーキンスは人間には信仰は必要ないと説いたが彼は自分の考え謂わば思想が正しいと信じていることに気付いていないだけである。宗教の敵はしばしば科学だと言われてるがそれは違う。宗教の敵は宗教である。科学者が科学的真実を持ってきて宗教を否定してもその科学者は自身にとって科学が信仰になっていることに気付いていないだけである。謂わば科学教の信者なのである。だから科学教の信者には既存の宗教が敵に見えるのである。科学がこれだけ発展する以前は哲学が宗教の敵だったが自身の正しいと信じている哲学が信仰になっていると気付いていないだけであるに過ぎない。哲学は昔ほど影響力を持ってないが科学の方が簡単で分かりやすく説得力があったのであろう。信仰の対象が哲学から科学に移行しただけのことに過ぎない。

思想の問題点は必ず優劣関係が出来てしまうことである。有る特定の思想を説くと必ず優劣関係が発生し、ある思想は下位に落とされ、ある思想は上位に立つ。下位に落とされた思想を持つものは自分の思想が論破されたと嘆く。論破した者は優越感に浸る。聖書のようなアホらしい書物がこれだけ影響力を持ってるのは不思議だが聖書を信じる人間は思考が一元化、絶対化されてるだろう。(フロイトは人間がもっと賢くなればキリスト教は滅ぶと考えていたようだが)こういう人間に対してどう接するべきであろうか。非常に難しい。岸田秀の唯幻論も有思想であろう。全て幻想であるのだから他の全ての思想が下位に落とされてしまう。下位に落とされた思想に依拠してる者はプライドが傷つく。全ては幻想であると説いているのだから岸田の思想も幻想になり相対化されるから相対的な思想だが有思想であることに変わりはない。それで自身の思想を否定された人間はますます自身の思想に固執するようになる。1神教の人間なら尚更。信仰は更に強固になるだろう。思想の問題は非常に難しい問題である。完全な思想はないと説いても説得力を持つのは難しい。思想を否定出来るのは思想だけと説明した。従って養老孟司は日本の無思想の思想を世界に伝え広めるのは日本人に課せられた世界的使命だと説く。

無思想の思想は数字の0と同じだと説く。0は何もないという意味と同時に数字の1つである意味をもつ。無思想もそれと同じだと説く。そしてそれならば有思想の人間にも通じるのではないかと説く。つまり、思想を否定し、思想的問題に対応するのは思想以外にありえないが養老孟司は有思想に対して無思想の思想を持ってきて有思想を否定しているのである。無思想の思想はきちんと整頓されたカオスである。それならば私も通じる人間には通じるような気がする。私は有思想を持ってる人間を説得するのは、やはり難しいと思ってるが、有思想を論破して、なおかつ傷つけず有思想がいかに傍迷惑か説得するのに仏教が打ってつけだと思っている。仏教とは0の哲学である。つまり無思想の思想である。日本の宗教も無思想の思想であるが、仏教はそれを言語化した宗教である。有思想を持つものを説得するのは難しいと説いたが仏教ならば通じるのではないかという思いがある。色即是空、空即是色である。まさに0の哲学である。全ての思想、哲学を仏教が内包してしまうであろう。それでいて仏教が思想的に上位に立つことはない。仏陀は言う。「他人を自分よりも劣っているとか優れているとか平等であるとか考えてはならない」と。従って仏教は他の思想と比較して劣っているわけでもなく優れているわけでもなく、また平等でもない。このような思想こそが有思想を持つもの、特に1神教徒を説得するのに有効ではないか。

仏陀は言う。

・最上で無病の清らかなことをわたくしは見る。人が清らかになるのは見解によると、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する

・もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、或いはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであれば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

・(真の)バラモンは(正しい道の)ほかには、見解、伝承の学問・戒律・道徳・思索のうちのどれも清らかであるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

・前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえてまた放つようなものである。

バラモンは(煩悩の)範囲をのり超えてる。かれが何ものかを知り或いは見て執着することはありえない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると妄執することもない。

・世間で人が勝れているとみなすものを「最上のもの」であると考えて、諸々の見解にとどこおり、それよりも他のものはすべて「劣っている」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

・かれは、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自身のうちにすぐれた実りを見、それだけを執着して、それ以外のものをすべて劣ったものであるとみなす。

・人が或るものに依拠してその他のものは劣ったものであると見なすならば、そのものは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行僧は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこどわってはならない。

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

・かれはこの世において、見たこと、学んだこと、或いは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる見解をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別することができるであろうか?

思想の問題点をものの見事に見抜き論破している。それでいて嫌みがなく説得力がある。分かる人には分かるだろう。これこそが仏教思想の骨子である。まさに0の哲学としか言いようがないがこれが仏陀の哲学である。有思想を特に1神教を信仰してるものをその執着から脱却させるのは難儀なことだが仏陀の思想は通じるのではないか。

また仏陀

・かれらは「ここのみ清らかである」と言い張って、他の諸々の教えは清らかではないと説く。自分がもとづいているもののみ善であると説きながら、それぞれ別々の真理を固執している。

・かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。────自分が称賛されるようにと望んで、自ら真理に達した者であると称しながら。

・集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して懸念する。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)欠点を探しているのに、(他人から)論破されたと怒る。

・これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争を離れるべきである。称賛を得ること以外に他の利益は存しないからである。

・(特殊な)哲学的見解を保持して論争し「これのみが真理である」と言う人々があるならば、汝はかれらに言え、────「論争が起こっても、汝と対論する者はここにいない」と。

思想は必ず構造的に優劣が発生するようになっているのである。自分が依拠している思想をのみ正しいと信じて他のものは劣っていると考える人間がいる。頭でっかちで全く話が通じない人である。1神教徒が典型的であるが日本の右翼、左翼にも同じことが言えるだろう。武士道を説いた葉隠れも同じであろう。こういう人達にとっては自身が依拠する思想が誇りになっており自我の安定を保つ拠り所になっている。信仰は至極強固である。ちょっとやそっとのことでは信仰は崩れない。こういう人達を説得するのは難しいだろう。思想を否定できるのは思想だけと説いた。従って思想を持たない人間はいない。宗教を持たない人間はいないと言ってもいい。思想の問題には思想的に対処するほかにない。養老孟司は自然科学を拠り所にして無思想の思想を説きながら有思想の問題点を切った。無思想を言語化した人物としては仏陀以降2人目の人物であろう。それが日本から出てきた。日本も相当狂ってる証左であろうか?私は日本の無思想は言語化するべきだと思ってるがそれにはルールが必要になるだろう。そして一体誰が言語化するのか問題になるだろう。日本の無思想を言語化できた時に日本の抱える問題も解決へと向かうのではないか。例えばアメリカからの独立の夢も叶のではないか。言語化するということは横の繋がりが出来ることであり同じ想いを共有化することである。日本人は中々本音は語らないし横の繋がりが弱いから押しにも弱い。従って日本人はいつもアメリカの言いなりなのに反発することもなくアメリカの言うことに従っているだけである。日本人は本当は屈辱を感じてるはずである。その屈辱を晴らす為に別の所に屈辱をずらして屈辱を晴らしている。例えばネットに顕著だが弱者叩き、韓国、中国叩き、田舎者軽視等がそれである。そうして劣等感やうさを晴らしている。はっきしいって卑怯なやりかただが、何で日本人はアメリカの属国であることを表面化しそのことについて語らないのであろうか。アメリカの属国から脱するのは不可能だと思っているのだろうか?まずは自分の本当の気持ちに正直にならなければ独立の夢は叶わない。未だに日本はアメリカと対等なパートナーと言って誤魔化している。私は日本人が日本はアメリカの属国であることを認めないのが不思議でしょうがない。そんなに屈辱的なことであろうか。私はそんなに屈辱的なことだとは思わない。アメリカは卑怯だったが戦争に負けたからしょうがない。日本の右翼もアメリカの属国であることに屈辱を感じてるであろう。阿倍には何を期待しても無駄である。自分の命を惜しまない豪傑系の政治家が必要である。日本がアメリカの属国から脱却しようとすると政治職を失脚させられるか殺される。しかし日本はいい加減に自分達の気持ちに正直になって同じ気持ちを共有化し、アメリカからの独立を勝ち取るべきであろう。いい加減にアメリカに嫌気が差してきた。アメリカの属国である現実は辛いが現実的にそうなのだから認める以外にないのである。日本に課せられた現実を認めないからいつまで経ってもアメリカの属国から脱却出来ないのである。日本人は本音を語らず日本の思想を言語化してない為に横の繋がりが弱く押しに弱いのである。養老孟司は日本の無思想を世界に伝えるのは日本人に課せられた世界的使命であり日本の思想は無思想の思想であると認識することが必要であると語るがその時に日本も変わるときであろう。

仏陀は言う

・(マーガンティヤがいった)「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、を欲しないのであるならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわるかわることを説くのですか?」

・師は答えた、「マーガンティヤよ。わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

・マーガンティヤがいった、「聖者よ。あなたは考えて構成された定説を固執することなしに、「内心の安らぎ」ということをお説きになられますが、そのことがらを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

・師は答えた、「マーガンティヤよ。見解によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こどわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

・マーガンティヤがいった、「もしも、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができないと説き、また無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳をまもらないことによっても、清らかになることができない、と説くのであれば、それは人を迷わす教えである、とわたくしは考えます。見解によって清らかになることができる、と或る人々は考えます」

・師は答えた「マーガンティヤよ。あなたは(自分の)見解にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だからあなたは(わたくしの説を)人を迷わすものだと見なすのです」

更に

・『等しい』とか『すぐれている』とか、或いは『劣っている』とか考える人、────かれはその思いによって争うであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、────かれには『等しい』とか『すぐれている』とか、(或いは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

・そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人は、誰と論争にかかずらうであろうか?

・もしも他人の教えを承認しない人が愚者であって、低級者であり、知慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)見解に住み着いているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく知慧の劣った者であるということになる。

・またもしも自分の見解によって清らかとなり、完全清浄な知慧ある者、真理に達した人、名智ある人となるのであるならば、かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから、かれらのうちには知慧の劣った人はいないことになる。

・諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしている。それ故にかれらは他人を「愚者」であると見るのである。

・世の中には多くの異なった永久の真理は存在しない。ただ永久のものだと想像してるだけである。かれらは、諸々の見解に関して思索考究を行って「(わが説は)真理である 」「(他人の説は)虚妄である」と2つのことを説いているのである。

・見解や伝承の学問や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定に立って喜びながら「反対者は愚人である、真理に達してない人である」という。

・かれらは過った妄見を似てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を第一人者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完成しているものだからである。

・もしも、他人が自分を(「愚者だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。またもしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうちに愚者は一人も存在しないことになる。

・自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚者であると見ることができようぞ。他(の説を)を、愚かである、浮上の法である、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

・一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それにとらわれずに行え。────安らぎを固執することもなく。

どうであろうか。仏陀の哲学はまさに0の哲学であるが、分かる人には分かってもらえるのではなかろうか。説得力がありなおかつ誰も傷つずに非常に力強い。思想の問題は思想的に対処し、信仰の問題は信仰的に対処する以外にない。従って養老孟司は自然科学で理論武装し(理論武装することが正しいと理論武装している)自然科学を拠り所にして1神教批判をしたのだがいかんせん養老孟司は科学を持ってきて1神教を批判してるから説得力にかける。(説得力がありすぎるのも問題だと語っていたが)自然科学には強制了解事項があり自然科学的真理は有無を言わさず強制的に了解する他なく反論は許されないと言うがそう言う言い方は益々反動形成的に信仰を強めるはずである。しかし、仏教は強制力がなくまた、説得力があり、そして思想であり、哲学であり、信仰であるから1神教徒を説得するのに仏教は持ってこいなのである。そして日本教である。日本教は仏教の次に説得力があると言えるだろう。しかし説得力を持つためには日本教言語化する必要があるであろう。日本教は無思想の思想であり無哲学の哲学であり無信仰の信仰であり無宗教の宗教である。そう言えば伝わるだろうか?小難しく感じる人間がいるだろうから、だから0が重要な意味を持つのである。仏教と同じだが日本人は自分達の宗教が無宗教だとは知らない。日本教とは思想家の山本七平の造語だが、日本教言語化する為には一体誰が言語化すればいいのかという問題がある。養老孟司は自然科学を拠り所にして日本教を世界に伝えるべきだと説いているが、さっきも説明した通り宗教に対応するのは宗教だけである。従って科学的真理を持ってきても納得はしても信仰は崩れないのである。だから日本教を仏教と同様言語化する必要があるのである。問題は誰が言語化するかである。今まで言語化してこなかったのは恐らく誰も責任を持ちたくないことと自身の思想に確信がないからであろう。更に未来の日本人を想う気持ちがないのであろう。別に私が日本教言語化してもいいが、恐らくそれは仏教的なそれになるに違いない。私が言語化した場合に私が責任を持つことになるが別にそれでも構わない。具合が悪くなったら思想を変えればいい。そして新たなルールを作った人間が責任を持つこととなる。日本教は無思想の思想だからいくらでも替えがきく。キリスト教は多くの派閥があるが、仏教もそうだがキリスト教は根底の思想は一元化された宗教であるから、常に批判的に見てく必要があるのである。だから日本教は仏教と同様0の哲学であると伝えるべきであろう。そして日本教言語化できた時に初めて日本の第2の出発となるであろう。アメリカからの属国からの脱却の道も見えてくるであろう。今の日本ははっきしいってかなり狂ってるが狂いの原因もはっきりし今より間ともな日本が現出するであろう。

1神教に対抗出来るのは仏教と老荘思想日本教の3つである。(今の堅苦しい強圧的で独裁的な中国共産党をみれば何故中国から老荘思想が出てきたのか分かる。このような中国人体質の反動形成作用として老荘思想が出てきたのである)岸田秀は1神教が諸悪の根元であり1神教が滅べばいいと語ってたがそれは確かにそうだがそういう言い方では1神教徒は聞く耳もたないであろう。かえって益々1神教に固執するであろう。色々と考えてみると仏教的な思想がベストであり言語化された日本教がベストなのである。宗教に対応するのは科学ではないと説明したが、だから日本教言語化する必要があるのである。そうやって順々と丁寧に説き続けば1神教徒にもいくらかは分かってもらえるのではなかろうか。仏陀の哲学は人間のネガに対する解毒剤的作用があると言える。老荘思想も同じく。解毒剤的思想である。日本教言語化できた時に解毒剤的作用をもち、また、1神教徒を説得するのにそして自分達を幸福に導くのに有効な思想を持ち得るだろう。仏教も日蓮のような1神教徒のような人間が出てきたが仏陀の教えを理解出来てないのである。日本もその思想の根底は無思想の思想だが八紘一宇のような一元化された思想が出てくるのである。どうせ危機に際して有思想も無思想も思考が一元化、絶対化されるのならばそれならば過去の反省を生かして日本教言語化すべきであろう。どうせ根底にある無思想の思想は揺るがないのだから。危機に際して人間は思考が一元化、絶対化されるのである。その時の教訓を生かして日本教言語化すべきである。

幸福の科学大川隆法が私は仏陀もキリストも超えたと語っていたがこういうことを語ってる時点で仏教を理解してるとは言い難い(東大出身)。ある特定の思想を持つものを超えようと試みること事態が執着であり固執であるからである。最近では霊を召喚して自身がその霊に憑依されるというコントみたいなことをしてるが(東大出身で知識も豊富なのに心の問題だけは知識とかは関係なくどうにもならないのである)、何故こんなことをするようになったのであろうか。政治にも興味を持ち選挙にも打って出てるが養老孟司の「無思想の発見」を読み自身の信念体型を完全に論破され破壊されたから全てがアホらしくなったのでコント染みたことをやり、そして政界に打って出て自身の威厳を周りにアピールしようとしてるのではないか?大川は自身を宇宙最高神「エルカンターレ」を自称してるがはっきしいってギャグでしかないし、ガキの遊びそのものである。仏陀に言わせれば大川は執着と迷妄の塊と言えよう。オウムもそうだし創価もそうだが宗教は子供の秘密基地遊びと同じである。ある特定の思想を立脚点に起きそこを基軸としてある種の世界観を構築する。その内部に居るものには至極幸福であろう。キリスト教も同じだしヨーロッパの超抽象的哲学も同じである。構造主義とか実存主義とか意味不明な哲学が出てきたが自身の哲学を信じ新しい世界観を構築し、世界変革を試みる。自身の哲学を信じていること、そして世界を変えようとしてることでは他の宗教家、或いは思想家と同じである。ヨーロッパの哲学は超抽象的で難解であるに過ぎない。哲学者は自身の哲学を構築しその内部にいるのは至極幸福であろう。子供の秘密基地遊びと同じである。デリダは私達は哲学を愛していましたと、語っていたがよっぽど哲学に愛着があったのだろう。これは仏教に言わせれば執着である。ミシェル・フーコの知の考古学は一ページ読むのに一時間かかる超難解な書物と言われているが岸田秀がヨーロッパの超難解な哲学はゴミみたいなものだと語っていたが確かにゴミみたいなものであろう。ジャック・ラカンの超難解な哲学が精神療法に役立つとも思えない。人間の心理なんか単純なものであろう。(ラカンは私は素人とテニスをするつもりはないと語っていたが)ある種の世界観を築き上げそこに依拠してることでは宗教も思想も哲学も同じであり信仰していること、つまり脳の働き事態は全て同じである。キリスト教の伝統的体系であると言えるだろう。ニーチェが語っていたがヨーロッパの哲学はキリスト教の影響無しでは考えることは出来ないであろう。

集団ストーカーも有思想であろう。無思想の人間がこんなこと思い付くはずがないからである。集団ストーカーを発明した人間の哲学が反映されているはずである。我々被害者は集団ストーカーのお陰で人生を潰され屈辱的な人生を歩むことを余儀なくされている。全く有思想は傍迷惑としか言いようがない。いい加減にしてもらいたいものである。

今日散歩に出掛けたら綺麗な白人女性に出会した。これはいつもの仄めかしだと直ぐに分かった。私は白人には否定的な立場を取っているから度々白人と遭遇するのである。その綺麗な白人女性は私を見て微笑を浮かべていた。物凄く美しかったが私が白人に否定的なのは知っているようであった。私は白人には否定的だが白人女性は好きなので白人女性と結婚し幸せな家族を築きたいと思っている。終わり。