集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

生きてても死ぬほどつまんね。1神教と超自我の憂鬱。

毎日が退屈で絶望的につまらん。耐え難いレベルである。やることといったら散歩とゲームくらいである。しかし散歩もゲームも嫌気が差してきた。部屋にいる時はテレビとラジオは付けっぱなしだが全くもってつまらん。日本のバラエティー番組は最悪レベルでつまらん。こんなにつまらないのだから誰か斬新なアイデアを思い付いてもよさそうなもんだが面白い番組に出会えることは滅多にない。日本のテレビ番組がつまらなくなったのは松本人志の遺書発売以降であろうか。遺書が発売されてからダウンタウンのパクりとしか思えない芸人が大量に出てきた。こいつらが最高につまらないのである。ちょっとでも松本人志的な芸を見せられるとうんざりするのであった。突っ込みも何でもかんでもいちいち突っ込み過ぎで非常にうざい。松本人志も20年くらい前に自身の番組の中で最近の芸人は何でも突っ込みすぎでこれは良くないと語っていた。20年経っても未だに何も変わってないのである。浜田や東野のパクりであろう。こいつらの存在が日本の番組を絶望的につまらなくしているのである。そんなに突っ込まなくていいよ、流せばいいのにとよく思う。ゲスト共演者は笑っているが本当の笑いではない。ここは笑わないとつまらない人間に思われるのではないかといった不安げな笑いである。愛想笑いに近いだろうか。それが視聴者にも伝わって番組がつまらなく白けてしまうのだ。遺書の中で松本人志は馬鹿には俺の笑いは理解出来ないと語っていたが、遺書の衝撃が日本のテレビ界を変えてしまったのは紛れもない事実であろう。副作用としてつまらない芸人が大量に出て来てしまった。松本裁判なる書物があって松本人志を分析し裁いているのだが確かに松本人志のせいで日本のテレビはつまらなくなったと言えるだろう。松本人志の視線が超自我(自我より上位に立ち自我を監視する規範)として内在化されたのであろうと思う。それで業界の人間や芸人は松本人志の視線を感じながら番組を作り笑いを提供する羽目になってしまったのであろう。松本人志的なお笑いと自身のお笑い観とのはざまで葛藤に苦しむことになったのであろう。馬鹿とは思われたくなく自分はお笑いを分かってる人間だと思われたいのだろう。26年前に発売された書物だが未だに松本人志の視線が超自我として内在化されているのだろうと思う。一般人も松本人志をパクっていた。寒い、痛い等の言葉を使ったり或いは、俺はどちらかというと突っ込みタイプとか、ボケタイプとか言い出したのも遺書以降である。社会全体の雰囲気も変わってしまった。これだけ社会に影響力をもった人間は後にも先にも松本人志ぐらいのものであろう。対抗馬はビートたけしぐらいか。(やはりたけしは面白い。70過ぎても面白いのは凄い。松本人志はまだ56歳だからまだまだ頑張れるだろう)そんな遺書だが遺書発売以降にも芸風が全くぶれなかった芸人がいる。島田紳助である。島田紳助だけは遺書の衝撃を受けずに自身のお笑いを展開していた。ネットで叩かれることのある芸人だが私は島田紳助のファンで大好きだったので引退は惜しかった。松本神助というトーク番組の中で松本人志と互角に渡り合っていた。明石家さんまとのトークでも明石家さんまに勝っていた。引退したのが非常に惜しまれる芸人であった。島田紳助松本人志同様笑いの天才であり唯一無二の芸人と言ってもよかろう。40年以上前の漫才を見るが今見ても面白い。笑いに普遍性があるのであろう。島田紳助のような芸人は2度と出てこないであろう。(私は高田純次きうちかずひろビーバップハイスクールの作者」も天才だと思う)

外国の音楽ライターが人々がイギリスのロックバンド、セックス・ピストルズのことを考えなくなったらみんな楽になるのではないかと書いていたが似たような現象であろう。セックス・ピストルズ以降に出てきたロックバンドの9割が間接的にせよ直接的にせよセックス・ピストルズに影響を受けてると言われておりその影響力の凄まじさはビートルズローリング・ストーンズを凌ぐだろう。こんなロックバンドは2度と出てこないであろう。気に入らないことは何でもかんでも否定しまくり、生放送の番組で放送禁止用語を連発しまくり、ゴッド・セイブ・ザ・クイーンという曲でエリザベス女王は人間じゃねえと歌ったり、アンチキリストを唱えたり(ヨーロッパでキリスト教を攻撃するのはとんでもないことである)、女王即位何年目かの船上パレードで船上コンサートを決行したり、コンサート中にベーシストのシド・ヴィシャスがベースで観客を殴ったり、コンサートを開けばキリスト教徒の集団がライブ中止のデモを起こしたり、右翼に襲われたり、アルバムを一枚だけ出して解散したりと、全てが無茶苦茶だったが、社会に不満を持つ若者たちの間でカルト的な人気を誇り、テレビや一般紙でも取り上げられセックス・ピストルズは社会現象になった。世間を大いに騒がせ日本の新聞にも女王が魚にされたと取り上げられたぐらいである。ファッションも奇抜で新品のスーツをズタズタに切り裂き安全ピンや注射器を洋服につけたりした。それで日本も含めて多くの若者がセックス・ピストルズのファッションを真似たのであった。セックス・ピストルズはパンクバンドだがセックス・ピストルズデビュー前にアメリカのパンクバンドラモーンズがデビューしておりパンク発祥はアメリカだと言われているがパンクを世界中に広めたのはセックス・ピストルズの功績であろう。パンクロックムーブメントが欧米で巻き起こったのであった。セックス・ピストルズのフロントマン、ジョン・ライドンは「テレビの悪い言葉は全て俺達と関係がある」と語っていた。セックス・ピストルズは異常に口が悪く気に入らないものは何でも否定、攻撃した。世界的に人気のロックバンドが格好の攻撃対象であった。ビートルズローリング・ストーンズレッド・ツェッペリン等を否定してあくまでもストリートの音楽を提唱した。ジョン・ライドンピンクフロイドなんか大嫌いとTシャツに書き外を歩いていた。世界的人気のロックバンドやそのバンドのファンにとってはセックス・ピストルズは悪夢以外の何者でもなかったのである。だから海外の音楽ライターはみんながセックス・ピストルズのことを考えなくなったら楽になるのではないかと書いたのである。しかしセックス・ピストルズは確かに世界を変えたのだ。これは大偉業であった。みんなセックス・ピストルズの音楽を聴き、ライブを観賞してこれなら俺にも出来ると思ったのであった。有名どころで言えば甲本ヒロトなんかはセックス・ピストルズに多大な影響を受けてると言えるだろう。それからパンクバンドのクラッシュのフロントマン、ジョー・ストラマーセックス・ピストルズのライブを見て衝撃を受けクラッシュを結成したのである。同じくセックス・ピストルズに影響を受けた人々が次々とパンクバンドを結成したのであった。ロンドンの100クラブを中心に一大パンクロックムーブメントが巻き起こったのであった。私もセックス・ピストルズを聴いて、これなら死ぬまで人生を楽しめるわいと思ったものである。43年前にデビューしアルバムは一枚しか出してないロックバンドだが未だに影響力をもっていると言えるだろう。毒舌で有名なオアシスもセックス・ピストルズをパクってるとしか思えない。因みにジョン・ライドンは何でも人間のすることは笑えてきてしまう人間であるらしい。ジョン・ライドンは言う。「俺は人のすることは何でも笑けてしまうからだ。これを説明するにはとんでもない例をあげなければならい。俺はヒトラーの演説を観ると思わず笑ってしまう。何故人々があれを観て笑わないのか不思議でしょうがない。ここに俺の狂気がある。狂気は時を同じくしておかしい。」と更に「俺達のアルバムは笑える。笑えると言うことはつまり価値がある」と言いまた「困難に直面したらそれを笑いに変えちまえばいいのさ」と松本人志と同じ事を言っている。セックス・ピストルズはありとあらゆる価値体系を全否定したロックバンドだと言われているが、ジョン・ライドンは既存の価値体系を笑い飛ばし否定したのだ。神話や伝説になることを否定し、ジョン・ライドンはそれらのものは全て幻想だと吐き捨てた。セックス・ピストルズはどう考えても伝説的なロックバンドだがジョン・ライドンセックス・ピストルズビートルズローリング・ストーンズと同列で語られることを否定した。その姿勢つまりパンクの精神は音楽界を飛び越えてありとあらゆるクリエイターに影響を与え受け継がれた。誰かの信者になることを嫌い、それは「権力的なそれになっちまうからな」といい否定した。ジョン・ライドンほど人々に影響力をもった人間はいないだろうが、彼は自分が、誰かの神話にも、伝説にもなりたくなく、それらのものを笑い飛ばし、ありとあらゆる価値体系も笑い飛ばし否定し既存の価値体系に依拠してた者にセックス・ピストルズは悪夢を与えたのだ。しかし世界中の若者にパンクは自分にも何か出来ると勇気を与え行動することの大切さを説いたのだ。パンクほど影響力を持った思想はないだろう。

私は笑いは素晴らしいと思う。こんなちっぽけで冴えない俺でも生きててもいいんだと思わせてくれる。パンクロックも同じである。俺は生きてていいんだと思わせてくれる。松本人志が「お笑いが1番凄い」と語ってたが、ロック史上最も影響力のあったセックス・ピストルズも「笑えることは価値がある」と言っている。権威や権力を否定し、既存の価値体系を否定し新たな価値を提唱するのがお笑いの真骨頂であろう。友達も彼女もいない俺だけどお笑いに浸ってる時だけはそんなこと大したことないんだと思わせてくれる。嫌な気持ちを吹き飛ばしてくれる。集団ストーカーも大したことないんだと思わせてくれる。世界で1番お笑いのセンスがあるのは間違いなく日本人であろう。欧米の笑いが1番つまらない。(アジア人は全般的に面白いのではないかと私は思ってる「朝鮮人は除く」)ミスタービーンなんか全く笑えない。何が面白いのか全く分からない。ピーター・セラーズも笑えない。モンティパイソンは観たことないが恐らく似たようなもんであろう。(適当)笑いこそ人間に与えられた特権であり笑えるということは価値のあることなのだから日本人はもっと自分たちに自信を持ってもいいだろう。

私は思うのだが神が死にそれまでは神が超自我だったのがその超自我が神から人へと以降したのではないかと思う。神の視線に晒されていたのが神が死んだ為に神の変わりに人の視線が今度は超自我の役割を担うようになったのであると思う。神が死んでも1神教的なものは滅びず温存されているのである。それが松本人志でありセックス・ピストルズではなかろうか。私が思うに養老孟司もそうだが人々の心の中に自分の視点を観念的に残したいという意図があったのではなかろうか。自分の事を分かってもらいたい。理解してもらいたいという気持ちが強いのではないか。ジョン・ライドンは「俺は人の心の中に土足で入ることは絶対にしない」と語っていたし、「苦しんでる人間の為に曲を書いた」とも語っていたから観念的な視点の威力は弱いと思うが、松本人志養老孟司は観念的に視点を植え付けたい衝動が強いのではないか。自分の事を理解しない世間を恨んでるかも知れない。養老孟司は自分は他人に理解されたと思ったことは1度もないと語っていたし、また松本人志は当時誰も見聞きしなかったくせに売れたとたん漫才を見せてくれと言われ、「誰が今更漫才なんかやるかい」と語っていた。松本人志はネットで叩かれまくってるが恐らく超自我として松本人志の視点が内在化されている為に松本人志を叩かないと気持ちが悪く「お前は昔ほど面白くないよ」という恐らく大衆の総意である視点を受け付けたいのだろう。視点を植え付けられた人間の反逆である。松本人志は最近まで調子を落としていたと語っていたが私が思うに遺書は94年に発売された書物だが遺書的視点が皮肉な事に恐らく松本人志を監視することになったのであろうと思う。私がそうだったのだが、自分で自分のこと監視することになったのだ。(自分で自分を監視する事はあり得るのである)馬鹿には俺の笑いは理解出来ないと語ったが故に松本人志は大衆ひいては自身の著作遺書が視点となり周りを気にしながら笑いを作る羽目になり調子を落としたのだと思う。私が見たところ、高校時代の話だが遺書発売以降の松本人志のコントはみんな面白いと語っていたが松本人志は96年頃から調子を落としていたとのではないかと思う。遺書発売以前と以降の松本人志のコントを見比べて見ると明らかにコントの質が変わっていた。遺書発売以前の方が明らかに発想力がありイキイキとコントをしていた。馬鹿には理解出来ないと言ったが故に周囲の視点が気になるようになったのであろう。視点を植え付けたい衝動が皮肉な事に自分が大衆の視点に晒されることになったのである。ウッチャンナンチャンウッチャンの番組が日本の番組の中で比較的面白いのはかつてダウンタウンと一緒にコントを作っていたことと無関係ではないと思う。一緒に釜の飯を食った旧友であるが故に視点の影響が弱かったと思う。島田紳助も同様松本人志の憧れの人物だった為に自分の笑いに自信を持てた為、観念的に視点の威力が弱く松本人志の視点を気にせずに笑いを展開出来ていたのだと思う。松本人志が最近まで調子を落としていたと語っていたということは、調子を取り戻したということである。遺書の影響力が弱まってきているのだろうか。

私は思うのだが恐らく近年1神教的な観念が神から人へと以降したのであろうと思う。誰の視点が超自我になるか超自我争奪戦みたいになっているのだろう。それで世界中に毒舌野郎がいるのであろう。海外の毒舌野郎はジョン・ライドンが言うようにセックス・ピストルズのパクリである。本当は自分が否定されたくないのである。否定されることを恐れているのである。だから自分の身を守る為に毒舌野郎になって気に入らないものを否定するのである。オアシスなんか毒舌で有名だが言うほど良い音楽作ってるかと思う。自己評価が高すぎるであろう。恐らく自分達の音楽を否定されることが怖いのだろう。日本も同じく毒舌野郎が多いのはその為である。ベッキーがあるアイドルを否定してたのには笑ったが(おおベッキー)この人々を監視する超自我が今の日本引いては世界のある種の閉塞感を生み出しているのだろう。みんな否定されるのが怖く自分を出せない。純粋に人生を楽しめない。クリエイターも同じく純粋に創作活動が出来ないのだろう。今の世の中の糞みたいなつまらなさもこの超自我が関係してると思う。私は思うのだがこの先の世界の大きな問題は人口増加問題である。中国とインド、それと後進国の人口増加が問題であるが、日本も国土面積に比して人口が多すぎる。このまま人口が増え続けると深刻な食料危機問題が起こると言われている。そこで人の数を少しでも減らす為に人々に楽しい気持ちを持たせず、特に日本が1番酷いと思うが社会全体が閉塞感に覆われているのではなかろうか。その閉塞感の正体は超自我である。特に何に対しても否定的で口の悪い人間の観念が超自我になるのである。人々に楽しい気持ちやポジティブティーを持たせない為に超自我が監視の目を光らしているというわけである。楽しい気分やポジティブティーを奪うことは生きる活力を失わせるからである。それで人口増を少しでも押さえようというわけである。人口調整として戦争やウィルスがあるがこの超自我も人口抑制の役割を担っているのではないかと思うのである。恋愛と縁のない人間も増えてきた。恋愛に興味のない人間も増えてきた。超自我がまるで暗黒のように世界を覆ってるのである。今の日本の閉塞感の原因は超自我の視点以外に考えられない。かつては欧米人が苦しんでた超自我が日本も欧米化したことによって超自我が輸入され、日本人も後れ馳せながら超自我に苦しむことになったのであろう。日本の今の人口は1億二千万人だが減速傾向にあると言われており、将来的に6000~7000万人ぐらいで落ち着くと言われている。人口が減って適正人口になるまで超自我の視点は消えないだろう。日本も1神教化してると養老孟司は語っていたが、確かに1神教化してるだろう。そして養老孟司自身の著作が観念的に1神教的な視点を持ってしまっていることには彼は気付いていないだろう。日本が適性人口になり1神教問題を克服した時に日本のテレビ界も活気を取り戻すのではないか。かなり遠い未来の話だが日本のテレビ界は今はまさに末期である。本当につまらなく笑うこともほとんどない。世の中にはテレビがつまらなさ過ぎる為にテレビを観るのをやめた人間や中にはテレビを捨ててしまった人間もいるらしい。ネットの世界も昔は面白かったが最近はつまらない。YouTuberはつまらないし、掲示板は荒らしや叩きが多いし単純に飽きてきた。全てが形骸化して斬新な発想がないのだ。日本のネット界は確実につまらなくなってきてると言えるだろう。たまにスポーツ動画やゲーム動画を見るだけになってしまった。ちなみに私は松本人志と誕生日が一緒である。

私は集団ストーカーのせいで働く事が出来なくなった為に今は生活保護を受けて生きているのであるが、集団ストーカーの被害者の為にしたいことが何も出来ないし就職も出来ない。ほとんど一日中家にいるだけの冴えない人生である。嫌がらせはムカつくは辛いしで最悪である。生きてても余りにもつまらなさ過ぎて涙が出てくる。生活保護費も生きていけるギリギリの金額しか支給されないので全く贅沢が出来ない。ひと月の食費も一万円ちょっとである。食費を抑えないとタバコとゲームが買えないからである。タバコは1番安いタバコを買っている。酒はたまに呑むがタバコとゲームは貴重なストレス発散源であるし暇潰しになるので食費を抑えているのである。早く就職して豊かな生活を送りたいとよく思うが、集団ストーカーが終わらない限り就職は出来ない。もう歳も歳だし就職先も限られてしまうので集団ストーカーには早く終わってもらいたい。集団ストーカーが終わったら友人と飲みにいったりしたいものである。私は26年も嫌がらせにあってきたのである。余りにも長すぎる。もういいだろう。私は早く自分の人生を取り戻して就職し好きなことをして人生を謳歌したい。集団ストーカーの被害にあっていない人が羨ましくてしょうがない。我々被害者の殆どが自分の人生を呪うであろう。集団ストーカーさえなければもっとましな人生があったと思うであろう。コメント欄にあったが他の被害者も私と同様自分が一番不幸だと思っているらしい。とんでもない人生である。悲惨と不幸を極めた人生だ。何で我々被害者はここまで追い詰められなきゃならないのだろうか。全く理解出来ない。一体誰が何の目的で思い付いたのだろうか。時々集団ストーカーを思いついた奴の事を思いそいつの事を殺したくなる衝動に駆り立てられる。我々は人生を犠牲にしているわけで何故こんな陰惨な嫌がらせが許されているのか不思議でしょうがない。他人の人生のかけがえのない時間を奪うのは重たい罪であろう。時間は一度失ったら2度と取り戻せないんだから。

私はもういい歳なのでこれ以上時間を無駄に出来ない。就職出来るか心配である。集団ストーカーのせいで仕事の機会も奪われているのである。集団ストーカーは人間の人生は一度きりだということが分かっているのだろうか。命と同じで時間は一度失ったら2度と取り戻せないのである。だから時間には価値があるのである。集団ストーカーをすることに罪悪感は感じないのか。心を痛めないのか。ここまで他人の人生を破壊するなんて信じられない。毎日深いため息が漏れる。私の人生は一体何だったんだろうとよく反芻する。思い返してみてもろくなことがなかった。何ともしみったれた人生である。私は集団ストーカーの被害者に選ばれて死んだような人生を生きてきたのだ。他の被害者も自分の人生を犠牲にして強い悔恨の念に襲われるであろう。実際自分の人生の時間を集団ストーカーのせいで犠牲にしたと嘆いていた被害者ブロガーがいた。他の被害者ではない人間は皆自分の人生を好きなように生きることが出来るが、我々被害者は自分の人生を好きなように生きる事が出来ない。もちろん人生は四苦八苦であるのだからどんな人生も苦悩や困難と無縁ではいられないだろう。我々被害者から見ても想像を絶するほど不幸な人生を生きる人間もいるだろうが、しかし、我々被害者は強制的に自由な時間を奪われ、なんとも冴えない惨めな人生を生きることを余儀なくされているのだ。幸不幸は相対的な問題で誰が一番不幸かなんて決めることは出来ないが、だがしかし我々被害者は少なくとも客観的に見て不幸な人生を送っているとは言えるだろう。

殆どの被害者が自分が1番不幸だと思うと言うが私も例外なく自分が全被害者の中で1番不幸だと思っている。毎日が苦痛で辛いだけだ。そんな人生を20年以上も生きてきたのだ。私と同じく自分が1番不幸だと思っている人間はその心中察するにあまりあるが、私の人生は相当不幸であり私以上に不幸な人間はいないと思っている。皆同じく自分が1番不幸だと思うくらい集団ストーカーに追い詰められているのだ。だから苦しんでるのは自分だけじゃないと思い多少気が楽になる。集団ストーカーはここまで人を追い詰めて一体何をしたいのであろうか。他人を不幸にすることに一体何の意味があるのであろうか。集団ストーカーの謎が深まる。集団ストーカーの存在は実は皆知っているのだが被害者じゃない普通の人達はこんな地獄のような人生を生きる我々を見て何とも思わないのだろうか。私なら可哀想だと思うであろう。楽しい時を過ごし幸福感を感じたら被害者に対して負い目のようなものを持ってしまうであろう。

集団ストーカーに終わりはあるのだろうか。今の私の関心事はそれだけである。死ぬまで終わらないとか絶対に勘弁してもらいたい。ある時散歩をしていたら思考送信があった。どういう思考送信があったかというと「色々と考えた結果、不合格」と思考が送信されてきた。集団ストーカーはまだ終わらせないぞということである。死ぬほどムカつき殺意を抱いた。不合格と言うからには合格者がいるのであろうか。合格の基準は一体何であろうか。我々は悲惨を極めた人生を生きているのに何で集団ストーカーに人生を試されなきゃならないのか。集団ストーカーからは「謝れば終わる」と思考送信があった。私は何に対して謝らなきゃいけなのか分からずちんぷんかんぷんであった。掲示板に書きまくった悪口のことであろうか?全く納得出来なかったが私は早く集団ストーカーが終わってもらいたかったので仕方がなく謝ることにした。するとそれから幾ばくか経った日、朝目を覚ましたら「いよいよだな」と思考送信があった。私は集団ストーカーが終わるのかなと思った。しかし、集団ストーカーのことだから嫌がらせが終わるとも思えず信じるのは頭半分ぐらいにしようと思った。そしたら案の定「不合格」と思考送信があったのである。全く糞虫酸が走る奴等だ。この嘘つきめ。こいつらには人生の貴重さなど分かるはずもない。本当に最悪な奴等だ。いい加減にしろ。死ねばいいのに。早く私に人生を返せ。

セックス・ピストルズの動画。凄いですよ。これなら確かに世界は変わるなと思いますよ。是非とも御視聴あれ。

アナーキー・イン・ザ・UK
https://youtu.be/cBojbjoMttI
ゴッド・セイブ・ザ・クイーン
https://youtu.be/yqrAPOZxgzU
ジョン・ライドンインタビュー
https://youtu.be/jQ2IsAldRKY
それにしてもジョン・ライドンには勇気づけられるな。何でだろ。不思議な魅力を持った人物だ

みゆこさん、その女性を紹介してくださいw