集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

日本のテレビはなぜつまらないのか

問題は松本人志の遺書にあると思われる。勿論松本人志を責めてるわけではない。遺書は大ヒットを記録したが、松本人志のお笑い哲学が網羅されており、遺書の影響力は凄まじく日本のお笑いを変えてしまった。それで日本のお笑いが面白くなるなら良かったが、明らかにかえってつまらなくなってしまった。何故かと言うと松本人志の遺書が超自我として内在化されて常に監視されてる状態になったからである。自分達のお笑い感を否定されたのも大きかったが、最大の原因は超自我として内在化されたからであり、常に松本人志に監視されてるような感じになったからである。それ以外の理由はない。何かお笑いを思いついても松本人志にどう思われるかな、つまんないと思われるかなと考えてしまい、本来の自分を出せずに常に松本人志を意識する状態になりお笑いの質が落ちたのだ。30年前のダウンタウンのごっつええ感じは今見ても色褪せない面白さがあり、普遍性があり時代の遥か先端を走っており、あれから30年も経つがダウンタウンのごっつええ感じを超えるコント番組は未だにない。発想力もずば抜けており、未だに勝てる芸人はいないし、板尾創路今田耕司の力も大きく番組を彩り松本人志のお笑い観を体現するのにうってつけであり、松本人志のお笑い観を体現出来るだけでも相当才能があるだろう。これだけ面白い演者が揃ってるコント番組もなく、姉やん、You、篠原涼子もコントでいい味を出していた。ほぼ同時期に放送していたナイティナインのめちゃイケは当時は人気だったし、クラスメートは好きで見てたが私は何が面白いのか分からず全く見ていなかった。ダウンタウンのごっつええ感じの後釜としては余りにも荷が重すぎて実力差は明らかであったが、みんな好きだった。私は笑ったことないけど。

松本人志は遺書の中で馬鹿には俺の笑いは分からないと書いてたがこの発言のお陰で逆に馬鹿が幅を効かせるようになってしまった。面白ければ生き残るだろうが、つまらなければ消えてしまう厳しい芸能界だが、今はつまらない馬鹿が幅を聞かせており全く笑えずテレビで見ても無表情だが、松本人志の馬鹿には分からないという発言が超自我の役割を果たして苦痛であり、その苦痛を誤魔化すお笑いが、登場してつまらぬ馬鹿がテレビで活躍出来るのは同じく松本人志超自我として内在化された一般人がつまらぬ馬鹿にシンパシーを感じてるからつまらぬ馬鹿がテレビに出れてるに過ぎない。

松本人志超自我として内在化されたことが日本のテレビがつまらなくなった最大の要因で好きなような番組を作れなくなってしまったわけだが、私が見たところ殆どの人間がつまらなくなったが、なかでも島田紳助だけは超自我として内在化されず遺書以降も変わらず相変わらず面白かったほぼ唯一の芸人であり、天才であった。だから、島田紳助の引退は惜しかった。自分の中にあるお笑いの規範に絶対的な自信があったのだろう。島田紳助はなぜ面白いのか?と聞かれてほとばしる才能と答えていたが自分でこういうことを言えるのは凄いが実際に物凄く才能があり面白かった。それととんねるずも変わらなかった。自分たちのお笑いを確立していたのであまり影響を受けなかったのだろう。他の芸人がみんなダウンタウンをパクってる中でとんねるずだけは違った。だから、とんねるずダウンタウンに匹敵するお笑いコンビと言えよう。

超自我とは精神分析の概念でフロイドは人間を超自我、自我、エスの三分法で説明して、これを集団に例えると、超自我が天上的権威、自我が政府、エスが大衆であり、超自我が自我とエスを検閲する役割を持っている。こう考えれば松本人志超自我として内在化された説明は非常に分かりやすいだろう。松本人志がお笑い界の天上的権威として君臨して、大衆的な笑いを監視してると考えれば分かりやすい。それで笑いが分からない奴は馬鹿だとする松本人志的な権威的言説が頂点に立ち検閲的な役割を持ってしまった為に自分の好きなようなお笑いを作れなくなってしまったのである。つまらなくなったのはこれ以外に考えられないんですけどね。

では、どうすれば日本のテレビが復活するかだが、論理的には簡単で天上的権威がなくなればいいのである。これは言うには易し、行うには難しであり、お笑いの才能が松本人志以上でなおかつ超自我としてその芸人が内在化されないことである。誰かは言わないが糞つまんねえ芸人が脚光を浴びるのも遺書の副作用だったと言うことが出来るだろう。

30年経っても遺書は死んでない。まだ生きてる。文化とかは遺伝するものであって、遺書を知らない所謂Z世代にも超自我として内在化されてるのである。戦争を知らない世代がアメリカを恨んでるように。

私が見たところ日本のテレビ界の未来は暗い。復活するのは当分後のことだろう。