集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

どんなキチガイ染みた病にも社会性がある

以前、私は大きな問題を抱えてると書いたが、もう1度簡単にその問題を繰り返すと、友人に心の中にありとあらゆる観念群を植え付けられその観念が視点へと変質し、常に内面を除かれ内側から支配さる状態になったことがあるーーいわゆる視点死刑であるがーーと書いたが、このような気味の悪い病にも社会性があると思われる。

例えば松本人志の「遺書」がそうである。この松本人志の「遺書」が日本のお笑い会に多大な影響を与えたことに異論はないだろう。お笑い会のみならず一般社会にも多大な影響力をもったのもまた事実である。

一般人が「俺はどちらかと言うと突っ込みタイプ」とか「俺はどちらかと言えばボケ」だなとか言い出したのは「遺書」以降であるし、当時はみんな松本人志の真似をしていた。

「遺書」の中にちりばめられたさまざまな言葉、哲学、思想がテレビ会を良くも悪くも「汚染」したのも事実であろう。

「遺書」以降日本のテレビ番組がつまらなくなってしまったのは疑いの余地の無いところである。

その理由として松本人志の言葉が観念化し、テレビ会を凝視する視点へと変質してしまったと考えることは出来ないだろうか。

このボケや突っ込みをしたら松本人志につまらないと思われるの恐ろしく、笑いの質を変えざるを得なくなってしまった可能性はないだろうか?

松本人志的なあるいはダウンタウン的な笑いが日本中を席巻し芸人も一般人もパクってたし、はっきし言ってそれはつまらぬものでしかなかった。

日本のテレビ番組は「遺書」以降どんどんつまらなくなっていった。たとえばビートたけしが昔に比べてつまらなくなったのも、素直に笑いたいけど笑えなくあのビートたけし特有の「ニヤリ」とした笑いかたも「遺書」以降によく見られる現象である。私はビートたけしのバイク事故も「遺書」に敗北感を感じたビートたけしの自殺だったという説を持っているがどうであろうか?

最近のお笑い芸人は何でもかんでも突っ込むしまたその突っ込みがしつこいし、これは浜田雅功ダウンタウンファミリーとも言われた今田、東野のパクりとしか思えないし、ワイプに映るタレントの笑い顔も「笑わなきゃならず笑ってる」という感じで素直な笑いではない。
最近の笑いはボケから突っ込みまで全てが予定調和でつまらないし、そこにはやはり松本人志の「ダウンタウン的なもの以外はつまらない」という視点があり「つまらない」と思われるのが怖いからではなかろうか。

どう考えても松本人志の「遺書」以降日本のテレビ番組は変質してしまった。(そんななかお笑いの質が遺書以降も全くぶれなかった島田紳助は流石と言わざるを得ず引退が非常に惜しまれる)

笑いコンビは別にどちらがボケでどちらが突っ込みという決まり事なんかないのはたとえば、とんねるずウッチャンナンチャンを見ればあきらかで、その時々の状況に応じてどちらが突っ込んだりボケたりすれば言い訳で別にお笑い形態としては、必ずしもどちらがボケでどちらが突っ込みといった役割分担が必須というわけではない。
ウッチャンナンチャン的、とんねるず的なお笑いコンビがもっといてもいいわけである。そんなお笑いコンビが中々出てこないのも、非ダウンタウン的なお笑いを出来ない恐れがあるからであろう。

ダウンタウン以降、ほとんど全ての笑いコンビがボケと突っ込みの役割分担がはっきりしており、今は昔ほど酷くないが少しでもダウンタウン的な要素があるとただの物真似に過ぎないからつまらなく感じるのであった。
一時シュールな笑いが注目され、シュール系芸人が持て囃された時期があったが、このシュール芸も松本人志のパクりでしかなかった。

兎に角松本人志の視点がテレビ会に内在化されてしまったことは疑いようのない事実である。

明石家さんまですら、松本人志の視点を感じながら番組に挑んでるのでなかろうか。
ボケと突っ込みがしつこく見てて楽しいとは思うが正直疲れる。

ダウンタウンも歳をとり今年で55歳である。流石に昔程の輝きはないが、ダウンタウンがどんどんつまらなくなっていくのと日本のテレビ番組がつまらなくなっていくのは比例関係にあって軸を一にしており、繋がっているとは言えまいか。

番組制作スタッフも本音を言えば正直松本人志の視点が邪魔で重苦しく感じているのではなかろうか?

私に視点死刑の刑が執行されたのも、「遺書」の発売年とほぼ被るし、私を自分の支配下に置こうとした彼は松本人志の芸風をよくパクっていた。

気味が悪く絶対に誰も同じ目にあいたくない視点死刑という刑罰も実は彼のオリジナルではなく社会性があったのであり、私を支配下に置こうとした彼も時代の手のひらの上で踊らされてたのである。

我々集団ストーカー被害者は24時間監視され思考盗聴器の存在を疑わざるを得ないし、(誰にも打ち明けたことのない心の中のプライバシーを仄めかされたことのある被害者は結構多いのかもしれない)我々は常に何者かの視点を感じさせるのがメインの犯罪、集団ストーカーの嫌がらせに耐えながら生きているわけであり、集団ストーカーも所詮は社会が産み落とした(集団ストーカー発明者のオリジナルではなく)社会性の産物かもしれないのである。