集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

トロッコ問題という問題

ロッコ問題とはあるものを助ける為に他人を犠牲にするのは許されるのかという倫理学の思考実験だが、この犯罪の被害者になってからトロッコ問題の仄めかしが何度かあった。

集団ストーカー犯罪はトロッコ問題と関係があるのだろうか。誰かを助ける為に我々被害者は自分の人生を犠牲にしているのだろうか?

そうだとしたら我々被害者の犠牲に支えられて生きている人間がいて我々被害者は毎日卑劣な虐めにあっているのだろうか。自殺だって考えるくらいに追い詰められているのである。そんな我々の不幸のお陰で生きていられる人間がいるのだろうか?
私は集団ストーカーは何か生け贄的なものと考えているわけであるが、誰かの犠牲の上に集団ストーカーが成り立っているのであれば集団ストーカーは供儀、生け贄的なものと考えても間違いないであろう。現代に甦った生け贄の儀式である。

以前、哲学者の内田樹の虐め分析を紹介した。内田樹は虐めは現代版供儀であると定義し自身の理論を展開したわけであるが、これを私は集団ストーカーを虐めに置き換えて内田樹が私にヒントというか、仄めかしをしてきたのではないかと考えたわけである。集団ストーカーがトロッコ問題と関連があるのであれば、あながち内田樹の分析は間違っていないわけで集団ストーカーは生け贄のようなものである。

生け贄はかつては神に捧げるもので詳しくは知らないが豊作を祈願したり天候の悪化等農作物の不作等の不幸に襲われた時や地震などがあったときにそれを神の怒りと考え、怒りを沈める為に少女などが生け贄になるのであった。

現代版生け贄は誰かは知らぬが他人の為に我々被害者は人生を犠牲にしているのであろうか?我々被害者は誰かの幸福の為に日々人生を犠牲にしているわけであろうか?以前お笑い芸人の松本人志から「誰かの犠牲が必要なこともあるんや」という仄めかしがあったがこれも生け贄のことを言っているのであろうか?

集団ストーカーを知らぬ者はいない、実はみんな知っていると何度も説明した。集団ストーカーは誰かの犠牲の上に成り立っており、しかもそれは誰かの為になる重要なことで普通の人達は多少は気になるが日常を大して気にすることなく生きていけるのではないか?
集団ストーカーになんの深い意味もなくただの虐めに過ぎないなら、人を虐めるのが好きな卑しい人間は別にして、まともな神経をもつ普通の人間ならおいおい生きていけないのではないか。そこは何か普通の人をして何か納得出来る理由があるのではないか?
私が被害者ではなく第三者だったとして集団ストーカーがただの虐めに過ぎないのであれば負い目を持ってしまい人生を楽しめない。

普通の人達は特に気にせずに生きているようだし、中には悲しそうにしてる者や心配そうにしてる者がいるが、笑いを堪えてる者もいたりして反応は様々であるが、大方は気にせずに生きてるようである。

我々被害者がこんな悲惨な目にあっているのに普通の人達が特に気にすることなく生きていける理由を知りたいのである。ただの虐めならまず間違いなく負い目を持つはずだからである。

そこはやはり負い目を持つ必要のない理由、何がしかの「利益」をもたらす理由があるのではなかろうか?
以前、内田樹が自分になんの「利益」をもたらさない人間を助ける理由はないと多分私に仄めかしてきたがこの「利益」が仄めかしで集団ストーカーのことを言っていたのであろうか。集団ストーカー被害者の悲惨の裏で何か「利益」を得ている人間がいて、助けられている人間がいるということであろうか?

何度も繰り返すが集団ストーカーは誰もが知っている犯罪である。知っている側はどういう説明をされているのかは知らないが、集団ストーカーは誰もが知っていて、それなのに存在しないことにされてるらしい。

集団ストーカーは「誰かの犠牲が必要」というところにこの犯罪の謎を紐解く鍵があるのであろうか。