集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

集団ストーカーのしつこさと人生の意味について

しつこい、しつこい、しつこい、とにかくしつこい。集団ストーカーのしつこさは異常である。電磁波の嫌がらせもしつこいし、アンカリングや仄めかし等の嫌がらせもしつこい。しつこさ自体が嫌がらせの部類に入る。一つ一つの嫌がらせはなんてことない嫌がらせばかりだが、これだけしつこく嫌がらせをされるとげんなりしてくる。もう耐え難いレベルである。毎日同じ嫌がらせにあい、そんな嫌がらせが何年も続くのである。気が狂ってるとしか思えない。こんなキチガイ染みた嫌がらせを一体誰が思い付いたのだろう。どう考えても気狂いである。

朝が始まる。朝は絶望と共に始まる。今日も嫌がらせにあうのだろうなと思うと絶望感で一杯になる。一体何の為に生きてるのかわからなくなる。集団ストーカー被害者の人生に意味はあるのか。人間生きることに意味を感じれば相当の苦悩、苦痛に耐えれるものである。しかし、集団ストーカーの嫌がらせにあい続けると人生の意味を見失ってしまう。鬱状態になるし、生きることになんの意味も価値も見いだせない。

人間は生きることに意味と価値を感じないと生きていけないものである。全ての人間は生きることになにがしかの意味なり、価値を信じて生きているわけである。そしてちょっとやそっとのことなら人間は人生の意味や価値は失わないものである。しかし、集団ストーカーの被害にあうと人生の意味も価値も崩壊する。全てが空虚で虚しいだけである。

人生の意味に関してはアウシュビッツを生き抜いた精神科医フランクルがよく説いたことである。どんなに辛く苦痛に満ち溢れた人生にも意味はあると。人生自体に意味を見出だすのではなく、人生の側が自分に何を求めてるか考えよと説く。人生の時々において人生の側が回答を求めておりその都度解答を見出ださなければならない。至極全うな教えであり精神分析手法だが、集団ストーカーの被害にあうと本当にガチで生きる意味を見失う。集団ストーカー被害者なら分かると思うが集団ストーカーは尋常じゃないくらいしつこく、私もかつては生きる意味について考えていたが遂には集団ストーカーのしつこさに屈し何の意味も価値も見いだせなくなるのだ。全てがアホらしくなり、気力も湧いてこない。鬱状態に追い込まれるのだ。しかし、それでも毎日ため息をつきながらもたまに人生の意味について考える。こんだけ辛い目にあっているのだからこの苦しみ自体に何か意味があるずだ。そうでなかったら何の為に生きてるのかわからなくなる。

生きる意味とは他者との関係性から生まれる。他者あってこその意味であり、価値である。他者性なくして生きることに意味も価値も発生しない。自分の人生が他者にとってどういう意味があるのか考えるのである。集団ストーカーの被害にあって非常に苦しい中にあって、苦しみを生きる中で自分の人生が他者にどういう影響力をもつのか考えるのである。例えば自分達の苦しみが他人を勇気付けることが出来るかもしれない。何かを考える切っ掛けになるかもしれない。そのように考えるのである。しかし、私の場合集団ストーカーが全ての人間が実は知っていたと知らされた為に何も出来ない。人生の意味を考え、他人に影響力を与えるには私の置かれている状況は余りにも劣悪過ぎる。私にとって人生の意味を見出だすのは集団ストーカー被害が終わってからだ。しかし、一日の閲覧者数、僅か数百人のこの超弱小ブログでも他人に何がしかの影響力を与える事が出来るかもしれない。今の状況下では人生に意味を見出だすのは確かに難しいが、私は将来は映画監督になることを夢想することもあるが、そうなった時には私だけが味わった地獄のような苦しみもそこに意味を見出だし、一つの作品に仕立て上げることも出来るであろう。

人間は苦しみを他人に理解してもらわないと生きていけないものである。全ての集団ストーカー被害者は自分達の味わっている苦しみを理解してもらいたいだろう。どうやって意味を見出だし、理解してもらうかは人それぞれである。私みたいにブログを書くのもいいだろう。今ならネットで小説も書ける。今の日本人は他人に無関心だから我々被害者の苦悩を理解してもらうのは難しいかもしれない。それならば同じ被害者に苦しみを訴えることも出来る。とにかく人間は人生に意味と価値を見出ださなければ生きていかれないのである。ギリギリの所で生きている我々被害者。やはり最後は自分の人生に何の意味があるのか見出だす以外にないであろう。

興味があればフランクルの本を読んでみるといいだろう。人生の意味についての考察がなされている。
お勧めははやり夜と霧である。アウシュビッツの地獄の中で苦しみながら人生に意味を見出だそうとするフランクルが描かれている。

みんなも人生の意味について考えてみてはいかがであろうか。