集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

どうしようもなく救いようもない不幸をどう処理するか

我々集団ストーカー被害者は不幸である。まだ目的は分からないが理不尽にも集団ストーカー被害者に選ばれて人生を犠牲にした。このだだっ広い宇宙の中に生きる我々の人生はただ一度きりであり2度と同じ人生は生きることは出来ない。全ての生命体はどれ1つとっても同じものはなく1つ1つの生命体がまさにかけがえない。人間の人生も同じである。どれ1つとして同じものはなく1人1人の人生がかけがえない。だから誰もが自分に与えられた貴重な時間を無駄にせずに生きたいのである。しかし、大概の人間は人生の貴重さについて考えず惰性で生きてるのが殆どだろう。人生の後半になれば流石に人生の限られた時間の貴重さを痛感するかもしれないが、それは残された時間が少なくなるからだ。それまで生きてきて人生の貴重な時間について考える人間は少ないのではないかと思う。我々集団ストーカー被害者は違う。集団ストーカーの被害者に選ばれて嫌と言うほど人生の貴重な時間を犠牲にする。出来ることが極端に限られしたいことがしたいように出来ない。だなら、我々被害者は普通の人達より時間についてはちょっと違う考えを持ってると思う。私は15歳の頃に集団ストーカーが始まり長いこと被害にあってきた。私は若い頃にやりたいことが何も出来なかった。私自身に原因があったとも言えるが、集団ストーカーのせいで出来なかったこともたくさんあり、いつか終わるだろうと楽観的に考えてたこともあるが、遂に集団ストーカーは終わらず私はおっさんになってしまった。仮に30代で終わるならばやり直しはきくがもう私はやり直しが不可能な年齢になってしまった。その悔恨の念は凄まじく私はいつも生きれなかった自分の人生を思いどうしようもない虚しさに襲われるのだ。仏典を読むと悟りを開いた聖者はこの世とかの世を捨てて決して過去を鑑みて後悔しないと書かれてるが、仏陀的境地に到達するのは私にはどう考えても無理だ。仮に今集団ストーカーが終わったとしても人生が絶望的なのは変わりないが、集団ストーカーは現在進行系で続いておりいつ終わるか分からない。これ以上人生を無駄に出来ないので集団ストーカーにいい加減に終われと言うが非情にも集団ストーカーは終わらず毎日陰惨な虐めにあっている。こんな人生を生きると人生に何の意味も見出だせなくなる。被害にあい不幸な人生を生きるだけだから私は一体何の為に産まれて来たのだろうと思う。酷い焦燥感だ。我々の不幸に何の意味もないとしたら我々に生きる意味はないのであり、とっとと死んだ方がマシだと思えるが、死ぬのは怖いから死なない。人生を生きてないのでありただ死んでないだけだ。生きてるとは言えず生ける屍状態だ。私はこんな不幸を極めた人生を生きてこの人生を何かの役に立てないものだろうかと考える。我々はかなり特殊な人生を生きてるのであり、こんな人生は前代未聞で人類が未だに知らなかった苦しみを生きてると言える。この苦しみを是非とも知ってもらいたい。人類史は悲惨と不幸に満ちており、意識的にせよ、無意識的にせよその悲惨と不幸な歴史を昇華して或いは文学に、或いは芸術に、或いは音楽に役立ててきた。もちろんネガティブに見れば人類史は復讐の歴史でもあり、最大のものがヨーロッパに始まる大航海時代だ。その余波を受けて日本も朝鮮を侵略して差別した。悲惨と不幸な歴史はポジティブな方向とネガティブな方向とに別れたと言える。人間に絶望することはあるけど、しかし、確かに悲惨と不幸の歴史を昇華してきた側面もあるだろう。我々集団ストーカー被害者の不幸もポジティブな方向へと昇華してもらいたい。勿論怒りも憎しみも復讐心もあるが、我々の人生に何かの意味を持たせるとするならばこの人類史上でもどうしようもなく救いようもない不幸な集団ストーカー被害者の歴史を未来の人類の為に役立ててもらいたい。それ以外に我々の人生の使い道はない。ただ被害にあい何の意味もなく死ぬだけだとしたら余りにも悲惨だ。戦国時代の反省が江戸の平安時代があり、太平洋戦争の反省が戦後の日本の平和があった。勿論戦後の日本は問題だらけで手放しで褒められたものではないが、戦争の反省があり平和な世の中を築いたのは事実だろう。

我々は確かに不幸な人生を生きてるけど何か他人に意味のあることに使ってもらいたい。我々の人生に何か意味を持たせるとしたらそれ以外にない。我々は人類が未だに誰も知らなかった苦しみを生きてるのであり、この苦しみは特殊であり筆舌に尽くしがたいが、我々が不幸になればなるほど我々の人生は意味を持つ。集団ストーカーは辛いし早く終わってもらいたいと被害者なら誰でも思うだろうが、終わらないなら終わらないならで更に我々の人生は意味のあるものになっていくのだ。そして未来の人類の為に役に立つのだ。そういう構造を持つ。集団ストーカーが終わらないからと言ってヤケになってはいけない。この不幸は特殊であり、誰も知らないのであり、だから自分の人生に意味を見出すべきである。この苦しみには普遍性があるのであり、ポジティブに考えれば昇華すれば何か普遍性のあるものを産み出せる。それは人類の未来に役立てる筈だ。だから、集団ストーカーは確かに辛いけど諦めてはならない。我々の人生には意味はあるのだと積極的に人生に意味を見出すべきた。これから更に辛く苦しい人生が待ってるかも知れないけど必ず誰かが見てくれてる。同じ思いを共有してくれてる人間がいる。心苦しんでる人間がいる筈だ。我々の人生は遂には報われないかも知れないけど絶対に人類史において何かの役に立つはずだ。我々は確実に歴史に残るだろう。どんな苦しみにも意味があると言えるかも知れないが、我々の苦しみは普遍的な苦しみであり私が体験した地獄は恐らく人類最後の苦しみだ。あれ以上の苦しみはない。断言出来る。遂には人類は全ての苦しみを知ったのだ。だから、人類はこれから究極の普遍へと至るだろう。人類史はもう終わりだ。我々の苦しみには意味があったのだ。私自身が何かを産み出せと言う話でもあるが私に出来ることはこうしてブログを書き被害者を励ますことだけだ。被害者のみんなも人類史にその名を残したと言えるが、何か自分の人生に意味を見出してほしい。このどうしようもない苦しみを生きる中で負けそうになることもあるかもしれない。実際に私も負けそうである。外に出るのも怖いし何も見たくないし聞きたくもない。しかし、こんな救いようがない人生にも意味があったと思うのだ。だから積極的に意味を見出そう。我々は究極の普遍性へと至るのだ。目指すのはそこしかない。やろうではないか。人類の為に役立てようではないか。このどうしようもなく救いようもない胸の焼け付く苦しみにも意味があるのだ。我々に残されたのはもうそれしかないのである。