集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

性開放と性に恵まれない男

私はかなりの女好きだが、若い頃に恋愛したことはない。若い頃は可能性も時間もたっぷりあるのだからもっと女に積極的になれば良かった。恋愛は恐らく若い頃にする恋愛が最高であり、人間は若い頃にしかない感性があり、その感性を持ってる時に恋愛出来たらかなり幸せであろう。世の中のミュージシャンはほぼ例外なくラブソングを歌っており、それだけラブソングが歌われるのだから恋愛は素晴らしいのだろう。今の若者は恋愛をしたくない層としたい層に分かれており、したくない層はなぜ人々が恋愛にハマるのか分からないようである。しかし、これは恐らく誤魔化しであり、本当は恋愛をしたいが自分には無理だと諦めており、恋愛をしたい気持ちがないと自分に言い聞かせてるだけであろう。私はかなりの女好きだからとにかく女が欲しくてたまらなかった。私の友人は同い年の女子高生と付き合っており、当時は女子高生が過激化した時代であり、それまで長いスカートを履いてた女子高生が突然ミニ・スカートになり、皆茶髪になったのであった。同時期にルーズソックスも流行りミニ・スカートととの相性は抜群であった。だから、私はそんな女子高生と付き合いたかった。女子高生の彼女が出来て、デートしたり手を繋いだり、キスをしたり、或いはそれ以上のことが出来たら最高だったであろう。私の友人は女子高生の彼女とキス以上のことをしており死ぬほど羨ましかった。野球部の仲間で学校帰りに彼女と橋の下でやった奴がいて死ぬほど羨ましかった。今では性の低年齢化が進んでおり、中学生、小学生でも気軽にセックスをするが、羨ましくて仕方がない。私が仮に10代の頃に恋愛できたら、こんなに女に執着することはなかったであろう。若い頃にしとくのは恋愛とセックスと言われており、それが出来ないと歪んで現れると言われている。実際に私はかなり歪んだし、今だに女子高生に執着しており、女子高生と付き合いたいがほぼ不可能であり、諦める他にない。私は死ぬほど女好きで、女を好きになることがこんなに苦しいならこの世に女なんかいらないと思う。神の被造物で最高なのは自然と動物と女であると思う。人間は自然を敬い、動物に感謝して、動物を有り難く頂く。昔は工場で生産される動物の肉ではなく、部族によっては自分たちで動物を捌いて食べてたわけで、そこには、自然や神に対する感謝の気持ちがあった。今の人達に食べものを頂けることに感謝の気持ちなんかあるまい。神の被造物の中で女は神秘的に素晴らしく変えになるものが他にない。世の男は女を得るために頑張るが女は男がどんだけ女を得るために努力するか知らない。しかし、今の女はどうも自分たちの価値に気付いたようで、女尊男卑になり、男をもて遊び、男を選り好み選び、優越感に浸っている。男は女にあんたとはやらないと言われたら終わりであり、そうなったら立場はないわけで、そのことに気付いた女はかなり図に乗ってるだろう。非処女と処女の女なら非処女の方が遥かにやれる可能性があるが、処女の女はこれを奪われたら終わりだという思いがあるからなかなか付き合うのは難しいようである。やるだけなら非処女の方が良いだろうし、男も処女の女は面倒臭いからやりたがらないらしい。

今は性開放が進んだ時代だが、そうなったのはキリスト教が性に対して抑圧的だったその反動である。日本はキリスト教社会ではなく、元々性的には開放されており、性に対してかなりおおらかで、夜這いの風習があったが、明治期にキリスト教が入ってきて、先進的な宗教だと持て囃され、キリスト教の処女神話が日本でも受け入れられて、処女が神聖視されて、日本のアイドルは処女であることが最高に価値のあることされてる。日本人は元々性的に開放されてたのに、何故かヨーロッパの性開放運動が日本に入ってきて日本でも性開放が進み、処女幻想は残り、今でも処女は女として最高に価値のあることだとされており、5ちゃんにも処女以外とはやりたくなくて、風俗お断りの男性は多いが、性開放が進むと男もやりたい放題かと思われたが、実際はそうならず、女が自由に選り好みするから、返って女とやれない男が増えてしまった。かくゆう私もその一人であり、集団ストーカー被害者ということもあって風俗以外では女とやれない。地元唯一のやれる風俗店は倒産してしまい、遂にやれる機会を失ってしまった。こうなると分かってたなら、10代の女とやっとくべきだった。金さえ出せばおっさんでも10代の女とやれるのが風俗店の良いところだが、早くやれる風俗店が出来て欲しい。

何事においても仏教の中道こそ真理であり、欲望は抑圧しすぎても開放しすぎても駄目であり、抑圧を抑圧しすぎた結果、人類の欲望が爆発して、資本主義社会になり、女は欲望赴くままに性願望を満たし、そして、女は自分のしたい男ととっかえひっかえなのだから、女と縁のない男が必然的に増えたのだろう。今ではアイドルが、気軽に自分の性事情を語り、1日3回以上はするとか昔では信じられないことを平気で語るのだから、性開放もここに極まりだが、今の女性にとってセックスは遊びであり、娯楽だから、背徳感はなく自身の性事情についても気軽に語れるのだろう。女子高生も気軽にセックスを楽しんでおり、金の為に平気でAVに出るのだから、もはや、性に付き纏ってた背徳感は一切ない。AVとは大概男の性処理の為にあるのだが、女はそんな男の期待に答えれば金になると、知っており、金の為に気軽にセックスをする。セックスまでいかなくても、女子中学生が平気でエロいポーズをとったり、擬似的な性的サービス(バナナを咥えるとか)男の性欲を刺激する。日本の男はキリスト教は嫌いだが、処女神話だけは受け入れて、性は今でも純粋なものであり、処女を求める男は多く、一方で性は快楽でもあるのだから、女に対して純粋さと不純さを当時に求めており、ヴァージンでありつつもエロい女と言うあり得ない女を求めており、その男の期待に答えるために処女性のある、女子小学生や女子中学生のアイドルが持て囃されるのだろう。とにかく、性の開放は性の抑圧とコインの両面なのは明らかだが、さっきも言った通り、仏教の中道こそが最高の真理なのだろう。人類は性の両極端を知ったのであり、性の抑圧は人類滅亡に繋がるのだから、ある程度は開放する必要があるが、開放しすぎると、返って女と縁のない男が大量発生して、少子化が進むのだから、今は仏教の中道に至る過度期であろう。性はたまに満たすから喜びなのであり、今みたいにしたい時に気軽にセックスが出来ても楽しくも何ともないであろう。何事もたまに頂けるから良いのだ。たまに女を抱いたり、たまに美味い食い物を食うから喜びを感じることが出来るわけである。だから、仏教の中道こそベストである。女の素晴らしを本当に知るために、女を抱きまくる必要があるが、私も将来的に中道を目指したいが、今はとにかく女を抱きたい。特に女子高生。女子高生とやれたら思い残すことはなく死ねる。誰か俺と付き合ってくれ。愛のあるセックスをしようではないか。俺は今の日本人男性と同じく愛と性とが分離しており、性だけを求める自分と愛を求める自分が同居している。愛と性とは昔は一致してたが、分離したのはもちろんキリスト教が性を抑圧しすぎたその結果だ。プラトニックラブの幻想はプラトンの時代からあったが、キリスト教ではとくに酷く、聖母マリアは処女でイエスを産んだとされており、作り話にしても無理がありすぎる。世界にキリスト教徒は24億おり、宗教人口一位だが、何で皆キリスト教の物語を信じるのか不思議で仕方がない。フロイドの幻想の未来という書物があり、この書物はキリスト教の未来と言うことだが、フロイドによれば人類が今より賢くなれば、キリスト教は滅ぶと訴えているが、いつかそうなれば世の中みんな幸福になれるだろう。性的にも今よりもみんな満足出来るだろう。キリスト教が性に対して敵対的だったのはキリスト教では神と人間の繋がりを重視するため、人間と人間の繋がりの中で最も関係が深まる性的関係を敵視するのは必然であった。

キリスト教が滅ぼべば人間は今よりも確実に幸福になれるが、多くの国民にとってキリスト教アイデンティティーの根拠だから、キリスト教を失うのが怖くてキリスト教抜きの社会は考えられず、アンチキリストのニーチェは無視されて発狂した。ここがヨーロッパの嫌な所で自分たちに都合の悪い人間は無視するか、殺す。キリスト教的な幸福しか知らないだけで、その幸福にどっぷり漬かって生きてきたからそれ以外の宗教は考えられず、非常に視野が狭いのがキリスト教だと言えるだろう。キリスト教のお陰で、性開放が進み返って性と縁のない男が増えたのだから、キリスト教みたく抑圧しすぎるのは間違っているのだろう。本当の幸福を考えるのであれば、仏教の中道こそベストであると言えるだろう。しかし、それがベストという言い方は実にキリスト教的な言い方であり、それ以外の可能性を潰す可能性があり、褒められたものではない。もっと相対的に見る必要があるが、しかし、キリスト教は間違ってると断言出来る。こういう言い方は実にキリスト教的なんだが、キリスト教的な言い方にならずに一神教を非難する言い方はないだろうか。これは、確実だが、この世から一神教がなくなれば皆幸福になれるはずである。気長に待ちましょうホトトギス