集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

それでも人生にイエスと言う

我々集団ストーカー被害者は人生にイエスと言うことが出来るだろうか。かなり難しい。集団ストーカーの嫌がらせにあうと圧倒的無力感、無気力感、虚無感に襲われるのだ。しかし、フランクルはそれでも人生にイエスと言えと言うだろう。集団ストーカー被害者の人生に一体何の意味があるだろうか。今の私は人生に何の意味も見いだせない。私達は膨大な人生の時間を犠牲にし、したいことも何も出来ずただ惰性の人生を生きるだけだ。しかし、フランクルは人生に期待してはいけないと説く。人生に期待するのではなく、人生の側が何を求めているのか考えろと言うのだ。我々集団ストーカー被害者の人生に意味を見出だすのだとしたら、こんな人生にも価値があり、他人にとって意味があるものに仕立て上げなければならない。

自殺を考えるほど追い詰められているし、実際に自殺をした被害者もいる。アウシュビッツの過酷な状況下でも人生に意味はあるとフランクルは考えた。我々集団ストーカー被害者も突如奇妙な世界に放り込まれたのであり、全く理不尽だがこれは現実なのだからしょうがない。こんな悲惨な人生にも意味はあるだろうか。意味を見出だす為には他者の了解が必要になるだろう。この困難に満ち溢れた人生に対して了解してくれる人間はいるだろうか。誰も本音を言えば集団ストーカー被害者と関わりたくないだろう。面倒事に巻き込まれたくないだろう。私が被害者じゃなかったらそう思うだろう。所詮は他人事と思うだろう。しかし、状況が違えば我々はこの苦しみを他人に理解してもらいたい。分かってもらいたい。これは多くの被害者が考える本音であろう。従って、我々被害者は他者に了解される考えを持たなければならぬ。ひょっとすると集団ストーカーは死ぬまで終わらないかもしれない。しかし、それでも人生にイエスと言うのだ。それ以外にない。だから、私はブログを書き続ける。生きてる間はブログを書き続ける。それ以外にない。皆も人生の意味について考えようではないか。私達に残された最後の可能性はこんな人生にも意味を見出だすことだけだ。

生きるのは辛い。他人を羨ましいと思う。早く集団ストーカーには終わってもらいたい。しかし、終わらない。一生終わらないとしても人生にイエスと言うのだ。私はブログは書けるし、何人かの被害者とメールのやり取りをしている。我々被害者には幾ばくかの自由はあるのだ。だからその自由を大切に使わなければならない。我々被害者はアウシュビッツユダヤ人並みに哀れな人生を歩んでいるがそれでも人生にイエスと言う他にない。

フランクルは言う。意味のない人生はないと。従って我々集団ストーカー被害者の人生にも意味はある。積極的に人生に意味を見出だそうではないか。我々に出来るのはもはやそれだけだ。私にはもうそれ以外に思いつかない。それでも人生にイエスと言う他にないのだ。辛いけどそれ以外にないのだ。頑張って生きよう。死ぬまで人生の意味を問いつづけよう。それ以外に可能性は残されていないのだ。