集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

集団ストーカー被害者は人生にイエスと言えるか

かなり難しいだろう。なんと言っても人生の貴重な時間を無駄にするのが痛すぎる。「人生にイエスと言う」という考えは地獄のアウシュビッツから奇跡的に生還した、ビクトール・フランクルの言葉である。フランクルアウシュビッツの地獄の状況下にあってこんな人生にも何か意味があるのではないかと考えた。人生の意味とは与えられるものではなく自ら作り出すもの、人生の側が何を求めてるかその時々において課せられる試練だと考えた。アウシュビッツは地獄だっただろうが、あのような状況下で人生の意味を考えるのは難しい。我々集団ストーカー被害者も人生に意味を見出だすのは難しいだろう。少なくとも私には難しい。もういい加減人生に嫌気がさしておりとっととこの世からおさらばしたい気持ちで一杯である。何で人間はこうも救いようもない不幸を創出するのだろうか。人間にはもううんざりである。

集団ストーカーの被害者に選ばれて毎日辛い目にあい時間を犠牲にする集団ストーカー被害者は人生にイエスと言えるか。かなり難しい。こんなしょうもない人生に何か意味があるか。こんな人生に意味を見出だすとしたらどんな意味があるというのだろうか。人生に意味を見出だす場合、自己完結ではいけないだろう。他人にとっても意味のあるものに仕立てあげなければならないだろう。かなり難しいことである。日本人は所詮は他人事と考える民族だし、集団ストーカーの被害者に選ばれるととてつもない虚無感に襲われるのだ。この虚無感は被害者にしか分からない。フランクルは人生の側が何を求めてるか考えろと言うがかなり難しいことである。私は青春時代を犠牲にし、気づいたらいい歳したおっさんになっており、恋愛経験もない。こんな虚しい人生もない。私の人生は一体何だったんだろうという感慨にしょっちゅう襲われる。しかし、色々と考えてみるとやはり、人生に意味を見出だす他にないと思われる。人生に意味はないと言うのは簡単だ。これは一種の思考停止だが、人生に意味はないとする認識がそいつにとって人生に意味はないという意味を与えてしまってる。だから、結局のところ人間は人生に意味を感じないと生きていけないように出来てるのだ。従って我々は非常に辛い立場にあるが、人生の側が何を求めてるか考えて自分なりの人生の意味を生み出す以外にないのだろう。積極的に人生の意味について考えようではないか。