集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

不幸な人生と人生の意味について

我々集団ストーカー被害者は間違いなく不幸な人生を歩んでいるがこんな人生に何か意味があるだろうか。多くの集団ストーカー被害者が酷い無意味感、虚無感に襲われているのではなかろうか。私も例にももれず毎日、酷い無意味感、虚無感に襲われているが、時々こんな人生にも何か意味があるのではないかと考えたりする。集団ストーカー被害者の中にはニヒリズムだかシニシズムだか知らんが世界をシャクに構えて見る人間もいるのではないか。

こんな人生ともなれば誰だって自分の人生の意味について考えざるを得ないだろう。恐らく大概の被害者は酷い無意味感や虚無感に襲われて、人生は無意味だと結論づけるであろう。しかし、これはよく考えてみるとおかしく、人生に意味はないという認識がそいつの人生に人生には意味はないという意味を与えてしまう。従ってどう生きようが人生に意味が発生してしまうのである。だから人生に意味はないという認識は導き出された1つの答えであって一種の思考停止であろう。なのでやはり人生の意味について積極的に考えた方がいいだろう。

我々集団ストーカー被害者は日々ギリギリのところで踏ん張って生きているのであって、毎日が非常に辛いのであるが、これで人生に何の意味もなかったとしたら我々の不幸は一体何なんだと言うことになってしまう。集団ストーカーの苦しみは味わった人間にしかわからないものである。この苦しみを多くの人間にわかってもらいたい。人生の意味が完成する為には他人にとっても意味あるものに仕立てあげなければならないだろう。これは非常に辛いことである。我々被害者の苦しみを認識してくれる他者なんぞいるのか。本音のところでは誰もこんな不幸を極めた人間とは関わりたくないだろう。日本人のことだから所詮は他人事と考える人間もいるだろう。我々は誰も振り返らない忘れ去られた他者である。このような状況下にあって人生の意味を探すのは難しい。しかし、先に説明した通り、どんな人生にも意味は発生してしまうのだから、つまり、人生に意味はないという認識だが、それは、人生の意味に関して考察した場合のみに発生する認識であって、人生の意味について、考えた時点で意味が発生するようになってしまうのだ。人生の意味以外の考察で人生の意味に対しての回答は得られないからである。従って人生には意味があると言わねばなるまい。

さて、そこで人生の意味である。我々集団ストーカー被害者は人生にどんな意味を見出だすことが出来るだろうか。正直なところ私も考えあぐねている。私は半世紀近くを生きてきて恋愛経験がないのである。これだけでもとてつもなく屈辱的だし、不幸であろう。更に集団ストーカーの被害者に選ばれたのだから最悪である。私は若い頃に恋愛出来なかったのでその後悔は凄まじく若さが今では憎たらしいが憎んだところで何かが変わるわけでもない。今では私はただのおっさんである。こんなしょうもないおっさんと付き合ってもいいと考える女なんぞいるものか。貧乏で禿げてて恋愛経験もない人間と付き合ってもいいと思う女がいるとは思えない。女は恐らく歳相応な男性を求めるだろう。しかし、私は恋愛経験がない。従ってこんな経験値のない童貞の禿げたおっさんと付き合ってもいいと考える人間がいるとは思えない。全くしょうもない人生である。私のこんな糞みたいな人生に一体どんな意味を見出だすことが出来るだろうか。他人の劣等感補償に役立つだけのゴミクズのような人生である。他人の踏み台みたいな一円の価値もない人生ではないか。こんな人生に意味を見出だそうとすると全てがアホらしくなってきて、大量殺人でも犯そうという気になってくる。がしかし、ブタ箱にぶちこまれて人生をお釈迦にするのは御免だ。

人生の意味。それは難しい問いである。自分が不幸な人生を生きる時にそんな人生を肯定できるか。誰にとっても難しいだろう。人間の人生とは他者との関係性の中にある為に嫌でも他人と自分を比較してしまう。そして、他者との関係性の中から見えてくる人生は他者との関係性の中に埋没された余りにも悲惨で悲しい人生である。こんな人生にどうやって意味を見出だせばいいだろうか。答えはまだないが私は人生の意味について積極的に考えていこうと思ってる。