集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

愛と孤独についてー集団ストーカー被害者との思い出話し

私は毎日ぼっちである。というのも集団ストーカーの典型的嫌がらせ離間工作にあったからである。友達を全て失い、連絡が来なくなり、親は死に、兄弟はおらず、当然だがこんな冴えない集団ストーカー被害者に彼女なんかできる筈もなく、出来ても別れさせられるだろうし、毎日ぼっちであり、死ぬほどつまらなく、退屈で精神的に苦痛である。離間工作は集団ストーカーの典型的嫌がらせの1つだから孤独に生きる被害者は多いことだろう。孤独はさぞかし辛かろう。友達の1人でもいれば集団ストーカーの文句を言ってストレス発散したり、単純に友達の存在は勇気づけられるし、たまに息抜きで遊びに行ったり出来る。中にはメル友が何人かいる被害者がいるようだが、集団ストーカーは基本的にメル友の存在も許さず、信じ難いレベルで妥協なく、全てが徹底しており、離間工作に遭えば友達、家族、恋人全てを失うことになる。従って離間工作に遭えば完全に孤独となり精神的にかなり堪えるだろう。(単純につまらんし、退屈で、生きることに何の意味も見いだせなくなる)

集団ストーカー被害者が受けてる被害は様々であり、多岐に渡り、特殊であり簡単に説明出来るものでもないが、離間工作に遭った被害者の気持ちは分かるだろう。孤独の辛さは誰にも分かる筈である。中には孤独に生きることを良しとする人間もいるが、(仏教徒とか)人間とは基本的に社会的動物であり、人間関係なくして生きていけるものではない。従って離間工作に遭った被害者がいかに苦しい人生を生きてるか分かるだろう。ある、アメリカの精神科医が人間が味わう苦しみの中で一番のものが不安であり、二番のものが嫉妬だと言っていたが、私は一番のものが不安であり、二番のものは孤独と言いたい。孤独はただそれだけで精神的に苦痛であり、耐えるのが苦痛であり(何とも思わない人間もいるだろうが)堪えるが更に我々は集団ストーカーの嫌がらせに毎日遭っているのだから堪らない。孤独の不安や恐怖と戦いながら、集団ストーカーの嫌がらせにも対処しなきゃならないのだから苦痛は倍々だ。

離間工作はよくある嫌がらせだから孤独な被害者は結構多いかも知れないが、(被害歴の会で談笑する被害歴がいるさしい。離間工作にも遭わず友人もいて被害が楽なのであろう)先にも言ったとおりメル友がいる集団ストーカー被害者がいて、私にもかつてはかなり仲が良くなった何でも話せる間柄の女性被害者仲間がいた。集団ストーカーの悪口を言い合ったり、政治や宗教について語ったり、その他他愛ないことを語り合い、かなり、楽しめる間柄の貴重な被害者であった。歳は私の5つ上で、もう50になるが、歳上なのに上から目線になることもなく対等な立場で会話できて好感を持てて何でも話し合えるかなり貴重な女性仲間であった。私は冗談で○○さん愛してるとメールを送ったりしてふざけたこともしたりしてた。(私は生来のふざけ者なのであり、思考盗聴地獄に陥った時ですらふざけていた。笑いを堪えるのに必死であった)その時は一度も会ったことないのに愛してると言われても困りますよ。思わず笑ってしまいましたと言われてしまった。(当然だ)その被害者仲間なんだが、何でも集団ストーカーに携帯を乗っ取られたとかで電話番号もアカウントもアドレスも全て変えてしまい連絡取れなくなってしまった。私のアドレスは知ってるからメールを下さいとラインで送ったが一切返事はなかった。私に愛してると言われて怖くなったのかも知れないが、別に彼女にしたいとか思ったことはなかったが私は彼女の人柄が好きで大切なメール仲間であった。ちょっと変わり者ではあったが、こんな友達初めてであり、彼女とのやり取りはいつも楽しかった。もう一度彼女とメールでやり取りしたいが、恐らく彼女とメールでやり取りすることはもうないだろう。ラインには彼女とのやり取りの記録は残されており、トークが2つあり、1つは彼女が消してしまった。残ってるのは少ないやり取りだけのトークだけである。(もう一つのトークを消さないということは私がラインに送った文章は一応読んでるのか?)いつか会いたいねと話していたが、私はそうですね、と言い彼女に会いたかったがその夢は叶わないだろう。

一度彼女と大喧嘩したことがある。私はラインに興味がなく大してやる気はなかったが、彼女が私とラインでやり取りをしたかったらしく、私は仕方がなく承諾したがラインで喧嘩をしてしまった。私のラインには彼女の本名で載ってるが彼女の友達のラインには彼女のニックネームで載っており、何でだろう?不思議ですねとやり取りをしてて、私がネットで調べたら、ラインでやり取りをしてる対象の電話番号を登録してる場合はラインでは電話番号に登録してる名前で載ってしまうと書いてあった。私は彼女の本名で登録してたので、ラインでも彼女の本名で載ってしまったのである。それで、彼女にそういうことですよと説明したら、彼女は理解できずアンドロイド(私のスマホ)とアイフォンだからとか意味不明なことを言い出し、何度も同じことを説明したのに、私の言うことを全く理解してくれないので私は切れて暴言を吐いたのである。キチガイ呼ばわりしたりして、良かったですね、キチガイで。苦しみを感じずに済みますからとか嫌な文章を送ったら、彼女は、私は親にもキチガイとか呼ばれたことありませんと怒りのラインを送ってきた。(流石にキチガイは言い過ぎだった)それで、もう一度何故彼女の本名で表示されるのか説明しても全く理解してくれず、私は疲れてラインを止めてしまった。彼女はやっぱりちょっと変わってるなあ、と思った。それで、次の日にあの時喧嘩をしたのは集団ストーカーが私達の仲を裂くために集団ストーカーが脳を乗っ取って喧嘩をさせたのではないかと彼女からメールが来た。私は私も実は同じことを考えてましたと答えた。それで、お互いに和解していつもどおり毎日メールでやり取りをしてたが、彼女が集団ストーカーに携帯を乗っ取られてしまい、それ以来彼女とはメールのやり取りはしてない。彼女と話さなくなって4ヶ月くらい経つだろうか。かなり長いが彼女ともう一度やり取りしたい。ラインに何度か彼女への思いを書いて送ったが、返信は全く無い。今までにいないタイプの友達だったから。友達の存在は貴重だと彼女から教わった。だから、彼女のことも彼女とのやり取りも忘れることは無いだろう。もう、メールでやり取りを出来ず遭う約束もしたがその夢は叶わないだろう。それとも彼女とは不思議な縁があり、いつか会うこともあるだろうか。それは分からないが今までにいないタイプの友達だったから貴重な存在であった。

さて、孤独である。大概の人間は孤独には耐え難い苦痛を感じるだろうが、孤独にも色々とパターンがあり、周りに誰もいない完全ボッチパターン、人が側にたくさんいて、誰かと会話をしてるのに孤独を感じるパターン。誰かと会話をしてるのに孤独を感じるパターンの人間は誰との間にも通路付けが出来ておらず、誰とも繋がりを感じれない可愛そうな人間だろう。完全なるぼっちの孤独も辛いが(今の私)人が側にいて会話もしてるのに孤独を感じる人間が一番辛い思いをしてると言えるだろう。(そういう人間は友達の存在が更に重圧になる)胸が重苦しくて仕方がないだろう。私は集団ストーカーの離間工作に遭い今では完全なるボッチであるが、たまに被害者仲間からメールが来るが、基本的に毎日1人であり死ぬほどつまらん毎日を送っている。つまらんというのはなかなかの精神的苦痛であり、1人で家にいると頭がどうにかなりそうになる。そんな集団ストーカー被害者は結構多いのではないか。何かすることがあれば、それをしてる間は孤独感もストレスも感じないが、何もしてない時の孤独はなかなか堪える。集団ストーカーはそんなことは折込み済みで孤独は耐え難いから被害者に離間工作をして全ての人間関係を切り離そうとするのだろうが、孤独を感じずに済むなら涅槃の境地に辿り着けるのではないかと言いたくなるくらいだ。涅槃の境地にたどり着けるかどうかは、欲望に打ち勝てるか、孤独を克服出来るかどうかにかかっているだろう。(人間の最大の欲望は性欲を満たすことだと思われるが性欲も欲望の一種であり性的願望を克服するのは一番難しいだろう。私にとっても最大の欲望は性欲を満たすことであり「プロしか相手にしたことないけど、しかし、プロは上手いから最高過ぎる。金の為とは言え見知らぬ男性にあんなことや、こんなことが出来るのは凄い。若い女の肌に触れられてセックス出来るのだから最高である。しかし、金がかかる」克服は難しい。涅槃の道は遠い)

仏典を読むとサイの角のように1人歩めと書いており、仏教では寧ろ孤独に生きることを推奨してるくらいだ。真の心の安らぎは人間関係の中にはなく寧ろ孤独であることで獲得出来るのだろう。(精神科医の父フロイドも完全に病的現象から開放されたいなら1人になるしかないと仏教的なことを語っていた。フロイドは散々人間を観察して頭を使い考えに考え抜いて仏陀に近付いたのではないか)だから、離間工作に遭い孤独に生きることを余儀なくされる被害者はそんなに落ち込む必要はない。辛いのはそうなんだが、真の心の安らぎは、実は孤独の中にあり少なくとも愛の中にないのは確実である。殆どの人間は愛し合う人を見付けることで孤独を克服出来て救われると考えがちだが、これは間違った考えと言わねばなるまい。仏教では、誰も愛すな、誰からの愛も求めるなと教えるがこれは仏陀の教えが正しい。一般的に愛は良いもののように思われてるが寧ろ逆である。愛とは塩水を飲んで更に喉の渇きを潤すために永遠と塩水を飲むようなもので永久に心の安らぎは、手に入らない。従って愛を手に入れたと思って喜んでる人間がいたら、彼は(彼女は)本当の安らぎからほど遠い所にいると言って良い。愛とは執着であり、仏教では執着を一番嫌うが、あの人に愛されたいとか執着以外の何モノでもなく、愛が手に入らないと、落ち込み、落胆し、自暴自棄になるのだから愛に執着してるとろくなこと無いと言える。執着こそ諸悪の根源なのだから、永遠と塩水を飲む状態に陥る愛を求めてはいけない。これは一般的な考えではない。皆愛を求めてる。寧ろ非常識的な考えと言えるが真理だからしょうがない。(こんな非常識的見解を持つ仏教だが世界には仏教徒が5億もいるから仏陀の威光は凄い)好きな人には愛されたいけど、そこはちょっと我慢して愛を求めるのを止めるのである。そうすることで本当の安楽を得られ、彼や彼女に対する本当の意味での好意を持てて本当の意味で好きになれ、結婚して本当の幸せを手に入れて暮らすことが出来るだろう。本当の幸せが欲しいなら愛を求めないことである。集団ストーカー被害者も愛が手に入れば困難を克服出来ると考えがちだが、この考えは間違いで、寧ろ困難が増えるだろう。昔私の友達に(嫌な奴だったから好きではなかったが)俺は人を愛したいとほざいている馬鹿がいたが、人を愛したい人間は他人からの情愛を求めてるのである。ストーカーの一方通行の愛もあるが、愛とは本質的に愛し愛されてこその愛であり、完全に病的だが、お互いに愛し合うから愛が愛として成立する。従って、俺は人を愛したいとほざいた彼は俺は人から愛されたいと言ってるのと同じである。同じなら、ではなぜ人を愛したいと言ったのか。それは支配欲がべらぼうに強いからである。人から愛されたいと考えてる人間の方が謙虚でまだマシである。人を愛す前提として愛す対象も自分のことを愛してくれなきゃならず、仮に愛してくれなかったら、愛は成立せず、俺はお前をこんだけ愛してるのに俺を(私を)愛さないとは何事だと怒るに決まってる。はい、執着してますね。愛されたい能動的な人間よりは愛したい積極的人間の方が間違いなく支配欲、独占欲が強い筈である。従って、そういう人間を見たら距離を置くのが良かろう。私は仏陀に習って誰も愛さないし、愛を求めない。愛は病的だからである。だいたいが自分が愛す対象が自分を愛さない可能性について全く考えてない。こういう独りよがりな人間は実にはた迷惑である。一番愛に執着してると言え、執着は最大の病的現象であり、愛とは愛し愛されてこその愛であり、俺は人を愛したいと言った彼の愛は病的なストーカー気質な一方的な愛である。実際にストーカー気質があって、私に付き纏ってきた気持ちの悪い奴だった。俺は人を愛したいと言った彼には確かにストーカー気質があり付き合わないのが一番である。しかし、親が子供を愛すのは当たり前じゃないかと反論が飛んできそうだが、我が子すらも愛してはいけない。我は無我であり、自分がないのに自分のものがある筈ないからである。我が子すらも自分のものではなく、愛さないのであれば、信じ難いだろうが本当の意味で我が子に対する好きという感情が芽生えるだろう。

今日は孤独と愛について永遠と語ってきたが、日々辛い思いをして生きてる集団ストーカー被害者。愛が欲しくなる被害者もいるだろうが、そこはちょっと我慢して愛を求めないのである。愛こそ最大の執着を生みだし更に人生が辛くなるからである。誰も愛さず、愛を求めるな。最初はちょっと辛いだろうがそういう生き方を実践してみると仏陀の言葉の真意が分かるだろう。仏陀の言葉に間違いはない。キリスト教と大違いである。

皆に幸ありますように😄