集団ストーカーと電磁波犯罪の謎

集団ストーカーの被害記録です

集団ストーカー供儀説

深層心理学に堀込という概念がある。これは例えば鳥類が卵から孵った時に最初に出会ったのがゼンマイ仕掛けのオモチャの自動車だとすると、それ以後ずっと自動車のオモチャについて行く現象であるが、私にもどうやらこの堀込の現象が当てはまりそうである。このブログで以前、哲学者の内田樹の苛めについての分析を紹介したことがあるが内田樹は苛めは供儀であると分析し、日本の苛めの問題は一朝一夕では解決出来ないと分析したものである。私はその内田樹の苛め分析を私に向けられた仄めかしであると判断し、内田樹は集団ストーカーを苛めに置き替えて私に向けて仄めかしてきたのではないかと考えたわけである。そしてこの内田樹の考え、供儀説が私に掘り込まれてしまったのである。今から6、7年前の話である。

集団ストーカーは全ての人間が知っていると以前に説明した。それなりに納得出来る理由があり、一般人から有名人まで参加して集団ストーカー被害者に嫌がらせをしてくる。こちらとしては毎日が戦争なので非常に辛い人生を送っているが、集団ストーカの目的を知っている第三者は毎日痛めつけられてる人間がいても、日常をなんら気兼ねなく生きることが出来る。普通に考えれば赤の他人とはいえ毎日壮絶な苛めにあっている人間がいれば誰だって、サディストは別にして、心痛める筈であるし、多かれ少なかれ日常を生きる上で弊害にもなるはずである。自分だけ幸福に生きていると負い目をもつからである。そうならないのは集団ストーカーには何か人々をして納得出来る理由があるからで、理由がただの虐待なら一般人も不憫に思いおいおい生きてゆけるはずがないであろう。私が非常に不思議に思ったのは毎日壮絶な苛めにあっている人間がいるのに、誰も気にせずに生きていることであった。逆の立場だったら私には耐えられない。やはりそこは、全ての人間が納得できる理由が集団ストーカーにはあるのであろか。もしそうでないのであれば、みんな苛めは密かに満更ではないのであろうか。或いは意識の表面では傷ついていても無意識的には満更ではないのであろうか。我々被害者は集団ストーカーという犯罪行為が日常的に行われても全く問題ない、どんな人間も説明されれば納得できる理由が知りたいのであるが何度考えてもわからない。

人間の動機には意識的動機と無意識的動機の2つの動機がある。集団ストーカーのことに関して言うと意識的動機は一般人に説明されている通り集団ストーカーの真の目的。次に無意識動機の方は意識的動機とは矛盾した動機。無意識的動機として集団ストーカーには供儀的要素があると考えることはできはしないだろうか。それは、私の被害が終息して第三者的立場から集団ストーカーを見てみないと分からないが、私は内田樹は集団ストーカーの無意識動機を分析して、それを苛めに置き換えて私に苛め=供儀であると、仄めかしてきたのだと判断したわけで内田樹はかつて「私の説が後々正しかった」ということがよくあったという言葉があり、私も集団ストーカーを無意識的観点から考察し未だに集団ストーカーは供儀の1形態だという考えから逃れられないのである。

供儀とは生け贄の儀式のことであるが、集団ストーカーにもやはり、そういう側面はないであろうか?
苛めは辛いものだが、5、6年で終わるのならなんてことないし、人生いくらでもやり直しがきくが、被害期間は長く、10年20年越すのは当たり前。苛めの内容も気味の悪いのや虫酸が走る嫌がらせばかりでストレスはたまるし、イライラもする。人生のかけがえのない日々は奪われ、はらわた煮えくりかえることばかりである。それで、他人の不幸は蜜の味というし、苛めは満更ではない人間がいるのではないか。私個人のことを言うと25年もの長きに渡って酷い苛めにあい続けているわけで、もはや私の人生は修復不可能である。(これは死ぬほど腹立つ)やはり、他人を攻撃し人生の貴重な時間を奪うのはある種のカタルシス、精神浄化作用みたいのがあるのではなかろうか。私の考えは間違っていると集団ストーカーは色々と仄めかしてくるが、内田樹の考えが頭に媚りついて離れない。つまり集団ストーカーは一種の生け贄の儀式であると私は未だに思っているわけで、内田樹の供儀説が集団ストーカーに対応した仄めかしかどうかはわからないし、仮にそうだったとしても、内田樹の説が凶とでるか吉とでるかわからない。何れにせよ、私は奪われた時間は取り戻すことは出来ないし、凶と出ても吉と出てもどちらにしても同じことで、集団ストーカーが終わったとしてもその後の人生が辛いものになることは変わりなく、うんざりした日々が続くであろう。何度も言うが終わって最悪、終わらなくて最悪である。

私以外の被害者も集団ストーカーにどんな意味があるにせよ人生は辛く苦しいものであることには代わりないし、したいことややりたいことを自由に出来ない人生は辛いであろう。なので早く本当の目的を教えてもらって苛めのほうはもういい加減終わりにしてもらいたいのである。

ちなみに内田樹から「半分諦める」という言葉があった。やはり我々被害者は人生を犠牲にしなきゃならないのである。集団ストーカーにはやはりどんな目的があるにせよ納得ゆきかねるものを感じる。